裂け目 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

  裂け目

「それは認知しがたいほどかすかな裂目である。空間と時間の裂目である。このかすかに見える割れ目をこえて一方から他方に行くのに一人の人間の全生涯を必要とするものである」

 有正は裂け目を歩いているのだった。自己の実存という裂け目、裂け目の向こうには無限の虚無が、沈黙が広がっており、実存とはこの裂け目から無限を垣間見ながら歩むことであるのだった。

  死

「死は生涯の果てにあるものではなく、一つの存在が、存在そのものに純化された時、いつもそこにあるのだ、死というものは存在の純化そのものだ」

 子規がカリエスの痛みに耐えながら、死というものの様子を書いている。そして一度ぐっすりと眠りたいと、そしてまた元気になりたいと。死は生命にとって自明。死や、死以後を考えることは出来るが。それは死に至るまでの生の部分が考えているだけ。呈示も証明も出来ない。カリエスを生きるとは、宿命とか、運とかではなく、その生の部分の生命のバリエーションとして、障害を負って誕生した生命においても、誕生さえも叶わなかった多くの生命に替わって奇跡的に誕生したという、その存在のバリエーションを生きるという、誕生したということはそういうこと、私にしてみれば五十億分の一の奇跡的な誕生、と存在。

  ジイド

「ジイドは絶望して死ぬことを念願としていた、これは人間が持ちうる最大の野心であろう」

 絶望して死ぬか、満ち足りて死ぬか、どちらも等しいということ、生の絶望も充足も、全て等しく存在としてあったということ、太古より人類、何と罪多く、何と絶望の内に消滅して行ったことか、これは今在る私においても同じこと、いくら私は私独自であるといっても、類として存在している。死への行脚僧のように、死さえも生きんとする人というもの。