世界文学大系
ギリシャ思想家集
ピユロン哲学の概要(第一巻)
――懐疑的哲学序説――
セクストス
エンペイリコス
藤沢令夫 訳
第一巻
第一〇章
懐疑哲学者たちは果たして現れるもの(現象)を否認するか
二〇 たとえば、蜜がわれわれに甘いものとして現れている。としよう。われわれはこの事実をそのまま承認する。なぜなら、実際われわれは感覚的に甘いと感じているからである。しかし、はたして蜜はそのかくれたる本質においても甘いかどうかという点になると、われわれはこれについて疑問を発する。しかしこの場合疑問の対象になっているのは、現象そのものではなく、現象について語られる事柄である。
そして、たとえわれわれが直接現象そのものを相手に問いを発することがあったとしても、われわれがそのような設問を提出するのは、けっして現象を否認しようという意図からではなく、教義哲学者たちの下す断定がいかに性急なものであるかを、指摘するためにほかならない。
第一四章
「十の方式」について
三六 比較的初期の懐疑哲学者たちの間でふつう伝授される慣わしとなっている諸方式
(トロボイ)――それによって判断保留が導きだされるように思われる諸方式――は、その数が十あり、それを彼らはまた議論(ロゴイ)とも論題(トポイ)とも同義語的に呼んでいる。それは次のものである。
①動物相互の間の違いを論拠とするもの。
②人間相互の間の差異を論拠とするもの。
③感覚器官の構造の違いを論拠とするもの。
④さまざまの状況を論拠とするもの。
⑤さまざまの置かれ方と距離と場所を論拠とするもの。
⑥相互混入を論拠とするもの。
⑦対象となる事物の数量と構成を論拠とするもの。
⑧関係性(相対性)から導き出すもの。
⑨それに出会う機会が頻繁であるか稀にしかないか、ということを論拠とするもの。
⑩生き方の方針、習慣、法律、神話的な信仰、教義上の見解などを論拠とするもの。
(4)第四の方式について
さらに、たとえそれぞれの感覚ひとつだけに議論を限定したとしても、あるいは感覚の問題を全く離れ去ったとしても、なおかつ最後には判断保留に到達することができるために、われわれは一歩すすめて、それの第四の方式を採用する。この方式は、さまざまの情況にもとづく方式と呼ばれるものであるが、この場合われわれが「情況」と言うのは、さまざまの主体的条件(状態)の意味である。
われわれの主張では、この方式が考察されるのは、以下のような事柄において(もしくは従って)である。
(ⅰ)(その人が)自然状態にあるか、それとも反自然状態にあるか。
(ⅱ)目覚めているか、それとも眠っているか。
(ⅲ)さまざまの年齢の違い。
(ⅳ)動いているか、それとも静止しているか。
(ⅴ)憎しみをいだいているか、それとも愛情をいだいているか。
(ⅵ)欠乏状態にあるか、それとも満足状態にあるか。
(ⅶ)酔っぱらっているか、それともしらふであるか。
(ⅷ)大胆であるか。それとも恐れをいだいているか。
(ⅸ)心に苦しみをもっているか、それとも歓びをもっているか。
一〇一(ⅰ)例えば、その人が自然状態にあるか反自然状態にあるかによって、事物はさまざまの相似ぬ性格のものとして感取される。げんに、錯乱状態にある人びとや、神がかりにかかっている人びとは、自分が神霊の声を聞くと信じるけれども、われわれにはそのようなことはない。
懐疑主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古代懐疑主義
ピュロン
懐疑主義は、西欧においてはエリスのピュロン(前365/360年頃ー前275/70年頃)の思想から始まった[1]。ピュロン自身は著作を残しておらず、またその弟子ティモン(前325/320頃ー前235/230年頃)による彼の言行録も断片しか残っていないので、ピュロンの思想がどのようなものであったのか、その後のピュロン主義とどの程度まで一致するのかは不明である[2]。ピュロン主義者の中で唯一著作が現存しているセクストス・エンペイリコス(200年頃活躍)の著作のひとつ『ピュロン主義哲学の概要』によれば、懐疑主義はピュロン主義とも呼ばれるが、それはピュロンの思想だからではなく、古代の懐疑主義者の中でピュロンが最も懐疑主義に専念したからであった[3]。
ピュロン主義
ディオゲネス・ラエルティオスが伝えるところによれば、ティモン以後のピュロン主義は、ティモンに弟子がいなかったためプトレマイオスが再建するまでは断絶していたという説と、セクストスまで連綿と続いていたという説がある[4]。もっとも、ディオゲネスが伝えているこの系譜の中で、今日においてその詳細が明らかになっている人物はひとりもいない[5]。また、ディオゲネスはプトレマイオスがピュロン主義を復活させたと述べているが、これについても、実際に復活させたのはアイネシデモス(前1世紀頃活躍)である説が今日では有力である[6][7]。
アイネシデモス
アイネシデモスは『ピュロン主義の議論』全8巻を著したが、しかしこの著作は残っておらず、セクストスが『ピュロン主義哲学の概要』などで彼について言及していることが知られているだけである[8]。
〔ヘラクレイトス哲学が〕われわれ懐疑主義と異なることは自明である。なぜなら、ヘラクレイトスは多くの不明瞭な物事に関してドグマティスト流の表明を行っているが、すでに述べたとおり、われわれはそんなことはしないからである。ところが、アイネシデモスを中心とする人たちは、懐疑主義はヘラクレイトス哲学に通じる道であると言っていた。(〔〕内は引用者の付記)
– セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.104.
このため、アイネシデモスは本当はピュロン主義者ではなくヘラクレイトス主義者だったのではなかったという疑いも持たれている[9]。
経験主義者セクストス
ピュロン主義者であり医者でもあったセクストス・エンペイリコス(エンペイリコスとは名前ではなく経験主義者というあだ名である)は[10]、ピュロン主義とその他の学派との相違を次のように伝えている。
人々が何か物事を探究する場合に、結果としてありそうな事態は、探究しているものを発見するか、あるいは発見を拒否して把握不可能であることに同意するか、あるいは探究を継続するかのいずれかである。たぶんこのゆえにまた、哲学において探究される事柄についても、真実を発見したと主張した人々もいれば、真実は把握できないと表明した人々もおり、またほかに、さらに探究を続ける人々もいるのであろう。そしてこのうち、真実を発見したと考えるのは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア派、その他の人々のように固有の意味でドグマティストと呼ばれている人たちであり、また、把握不可能であると表明したのは、クレイトマコスやカルネアデスの一派、およびその他のアカデメイア派であり、そして探究を続けるのは懐疑派である。
– セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.6.
ここでセクストスは、ピュロン主義を独断論および不可知論と対立するものとして提示している。但し、このような分類はやや割り切り過ぎなのではないかという見解もあり、特に初期のアカデメイア派を不可知論に属せしめてよいのかについては今日では疑問が呈されている[11]。セクストスによれば、懐疑主義の目的は、「思いなしに関わる物事における無動揺[平静]と、不可避的な物事における節度ある情態である」[12]。
というのも、懐疑主義者はもともと、諸々の表象を判定して、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを把握し、その結果として無動揺[平静]に到達することを目指して、哲学を始めたのであるが、けっきょく、力の拮抗した反目のなかに陥り、これに判定を下すことができないために、判定を保留したのである。ところが判断を保留してみると、偶然それに続いて彼を訪れたのは、思いなされる事柄における無動揺[平静]であった。
– セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.20.
もっとも、あらゆる事柄について判断を留保するのではなく、表象(感覚へのそのままの現れ)として不可避的に受け取っている事態についてはこれを承認する[13]。つまり、セクストスの説明によれば、知識が何らかの不明瞭な物事に関係しているという意味でのドグマを持たないという意味で、ドグマを持たないのである[14]。同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに、「私にとっては今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところこのことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる[15]。
このようなピュロン主義は、セクストスが伝えているところによれば、新旧異説を合わせて全部で17の議論の仕方を有している。伝統的な10の方法は、次の通りである[16]。
動物相互の違いにもとづく方式:例えば犬と魚とバッタは異なるように物を見ているかもしれない[17]。
人間同士の相違にもとづく方式:例えば人によって身体構造が異なるということ[18]。
感覚器官の異なる構造にもとづく方式:例えば絵は視覚によれば奥行きがあるように見えるが触覚によれば平面であること[19]。
情況にもとづく方式:例えば一般人と神がかりに合っている人は異なる表象を持つこと[20]。
置かれ方と隔たり方と場所にもとづく方式:例えば、船は遠くから見ればゆっくり動いているように見えるが近くから見れば速く動いているように見えること[21]。
混入にもとづく方式:(注:この箇所は現代の知識から見るとかなり分かりにくい内容になっている。例えば身体は水中では軽くなり空気中では重くなると言われているが、これはいわゆる重量が周辺の物質との混合によって変化していると考えられていたものと解される)[22]。
事物の量と調合にもとづく方式:例えば酒を飲み過ぎると害になるが適度に飲めば健康になるということ[23]。
相対性にもとづく方式:すなわち物事は主体に応じて異なるということ。
頻度にもとづく方式:例えば彗星はたまにしか現れないので驚かれるが、彗星が頻繁に現れるようになれば驚かれなくなるであろうこと[24]。
様々な説の対置による方式:習慣、法律、神話および学説がばらばらであること[25]。
外部リンク
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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