自省録  アウレリウス | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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世界文学大系

ギリシャ思想家集

自省録 

アウレリウス
鈴木照雄 訳

第二巻

一七
人間の生命において、その歳月は点であり、その質料は流動するもの、感覚は混濁し、全肉体の組織は朽ち易く、魂は狂乱の渦であり、運命は窺い難く、名声は不確実である。これを要するに、肉体のことはすべて流れる河であり、魂のことは夢であり煙である。人生は戦いにして、過客の一時の滞在であり、後世の評判というものも忘却であるにすぎない。しからばわれわれを護り導きうるものは何か。唯一つ、哲学のみ。その哲学とは、かの内なるダイモンを傲らず傷つかぬものに、また快楽と労苦に打克ち、欺瞞と偽善をもってでたらめに為すことなく、他人の行為の有る無しを求めぬもの、かかるものとして護りぬくことに在る。
第四巻

四八
絶えず想うべきは、いかに多くの医者が、しばしば病人を憂い額に皺を寄せたあげく、彼ら自身死んで行ったかということ。またどれほどの占星術者が他人の死を何か大したことのように予言し、どれほどの哲学者が死や不死について数限りない主張を熱心に述べ、どれほどの王侯が多くの人間の首を刎ね、どれほどの暴君がまるで不死なる者のごとき態度で、人の命を勝手にできる力を、醜悪な傲慢の心をもって行使し、そのあげくみな死んで行ったことか。どれほどの数の国家全体が言うなれば死滅したか。ヘリケ、ポンペイ、ヘルクラネウムその他の国家が。
第九巻


死を蔑ろにせず、死もまた自然の欲するものの一つであると考えて、それに対し心明るく平かであれ。青年であり老年であること、生長すること、壮年になること、歯や頬髯や白髪が生えること、子種を授けること、妊娠し、分娩すること、そのほか、自然から与えられ人生の各時期の齎すいろいろな営み――そうしたものの一つに、生からの解放もまた入るのである。死に対して、粗放な押しの強い傲慢な態度をとらず、その到来を自然の一営みとして待つこと。また、お前の妻の体内よりいつ胎児が生まれ出るかとその時を待つ今のお前の態度でもって、あの肉の容器からお前の魂が脱出する時を迎えること。これらは思慮を重ねた人間の為すところである。
第一〇巻

一五
お前に残された時間はわずかである。山中に静閑を送るごとくに生きよ、もしいずこに住んでもわが住む所は宇宙なる国家の中と思えば、都市のここも、山中のかしこも変ることはない。お前が本然の性に従って生きる誠実な人間であることを、世の人々に示し、彼らをして語らしめよ。もしお前が彼らにとって我慢のならぬ者ならば、彼らにお前の首を刎ねさせよ。この方がかかる生き方をするよりはましであるから。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・アウレリウス胸像(大英博物館所蔵)
全名 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
出生 121年4月26日
ローマ
死去 180年3月17日(満58歳没)
ウィンドボナ・軍営地
配偶者 小ファウスティナ
子女 コンモドゥス(第17代ローマ皇帝)
王朝 ネルウァ=アントニヌス朝

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus、マールクス・アウレーリウス・アントーニーヌス、121年4月26日 - 180年3月17日)は、第16代ローマ皇帝。五賢帝最後の1人。ストア派哲学に精通し、晩年には自らの体験を『自省録』に遺し、後世には「哲人皇帝」と称された。対外的にはパルティアやゲルマン人の侵入、国内ではキリスト教勢力の拡大や飢饉、叛乱の発生など、その治世は多難な時代の始まりであった。これらの難題に対して果敢に対処し、晩年も自ら陣頭指揮を執って叛乱を鎮圧するなど、内憂外患の苦境に陥るローマ帝国の安定化に奔走した。一方、後継者指名に禍根を残したことにより、五賢帝の時代は彼の治世をもって終わりを告げた。

マルクス・アウレリウスは深く尊敬されるローマ皇帝の一人で、当時書かれた数多くの伝記が残されているが、その出自や生涯に関する記述は誤りや創作が含まれたものも多く、現在も議論が行われている。

生涯
生い立ち
マルクス・アウレリウスは121年4月26日、ローマでマルクス・アンニウス・ウェルスの子として生まれた。ウェルス家の属するアンニウス氏族は比較的無名の氏族ながら歴史は古く、共和制期の執政官ティトゥス・アンニウス・ミロという人物を持ち、彼はキケロの側近としてプブリウス・クロディウス・プルケルと論戦を繰り広げたことで知られている。またアンニウス・ミロの妻は独裁官スッラの娘であったため、スッラも祖先の一人に数えることが出来る。

父マルクス・アンニウスは現在のコルドバ市に所領を持つ貴族で、同名の曾祖父と祖父はそれぞれ法務官や元老院議員などを経験している。ウェルス家はオリーブの生産によって財を成し、祖父の代に元老議員ルキウス・スクボリウス・ルピウスの娘ルピラ・ファウスティアを娶って貴族の仲間入りを果たした。祖母ファウスティアは第13代ローマ皇帝トラヤヌスを大叔父に持つため、アウレリウスの即位時点で五賢帝間に血統上の繋がりが生じることになった。加えてカッシウス・ディオはハドリアヌスとウェルス家が血縁関係にあり、これを背景にアウレリウスが立身を果たしたと記述している。

マルクス・アウレリウス自身も幼少期より当時の皇帝ハドリアヌスにその才能を認められ、皇帝として必要な内政経験などの政治キャリアと教養を積んでいった。その後、ハドリアヌス帝が先帝アントニヌス・ピウスを養子に指名した際にマルクス自身もピウスの養子に指名され、将来の皇帝候補と目されるようになる。そしてアントニヌス・ピウスの娘小ファウスティナと結婚し、たくさんの子供をもうけるが、成人したのは1男5女であった。

アントニヌス・ピウスの下では執政官就任など皇帝になるための準備を積むが、それは文官キャリアに偏ったもので、軍での経験はなかった。行動範囲はローマからナポリ付近までで、北イタリアにさえも行くことがなかった。そのため、皇帝就任後にゲルマン人などの蛮族対策に十分な効果を得られない要因となり、彼の治世下で影を落とすことになる。一方、マルクス・アウレリウスは元々強くない体ではあったが、日常の公務に加えて哲学などの勉学に精力的に励み、後世哲人皇帝と呼ばれる素地を自ら育んでいった。

161年、アントニヌス・ピウスが死去する。マルクスは後継皇帝に就任するが、その際にルキウス・ウェルスとともに前例のない共同皇帝となることを要請する。共同統治を経て、ルキウスが没した169年に単独皇帝となった。

業績

マルクス・アウレリウスの肖像を刻印した銀貨マルクス・アウレリウスの治世は、内憂外患の多難な時代の幕開けであった。皇帝就任直後には首都ローマの中央部を流れるティベリス川が決壊するという自然災害に見舞われ、食糧危機が発生していた。一方、隣国パルティアとの間にアルメニア問題が再燃、第六次パルティア戦争が勃発した。162年にはシリアに侵攻されるも、その後ローマ軍は反撃に転じ、164年にはパルティアの首都クテシフォンの奪取に成功した。しかし、この時ローマ軍内部に天然痘が蔓延したため、クテシフォンからの撤退を余儀なくされる。パルティア側はこの隙に乗じてクテシフォンの再奪取に成功し、さらにアルメニアを占領するが、その後はローマ軍の巻き返しもあり、166年にパルティアが北メソポタミアをローマ帝国に割譲することで、一応の終結をみた。

その後、パルティアとの抗争によりもたらされた天然痘は、帰国したローマ軍を介してローマ帝国全体に蔓延することとなり、ローマ帝国の人口と兵力の減少をもたらした。ローマのこうした弱体化を目の当たりにしたゲルマン人諸部族は、その後ダキアへの侵入やマルコマンニ戦争などの小競り合いを繰り返し、マルクスは蛮族への対処に多くの歳月を費やすこととなった。マルクス・アウレリウスの時代にゲルマン人との抗争が続発したのは、このようなローマ帝国の弱体化が直接の原因であったが、ゲルマン人口の自然増加に伴って彼らの居住領域の膨張圧力が強まっていたこともその根底にあった。

加えて先帝アントニヌス・ピウスの時代、ゲルマニア国境付近に居住するゲルマン人諸部族よりたびたびローマ帝国の庇護を求められ、彼らの居住地域をローマ帝国へ編入するよう申し出がなされているが、ピウスはこれを拒絶しており、ゲルマン人の間でローマ帝国に対する不満が高まっていた。その意味で、マルクス・アウレリウスの直面したゲルマン人との抗争は先帝アントニヌス・ピウスの消極的な対外政策も多分に起因しており、そのツケを払わされた代償としての側面も大きい。

一方、マルクス・アウレリウスは後継者人事に関して、後世に少なからざる禍根を残すこととなった。実子コンモドゥスの次期皇帝候補指名である。五賢帝時代を通じて、優れた者を養子にして帝位を継承させる慣習[1]が続いており、それがローマ帝国の長きにわたる平和の維持や国内外の安定を支えていた。しかしマルクス・アウレリウスは、政治経験も潜在能力も未知数であるにもかかわらず実子コンモドゥスを次期皇帝候補に指名した。その結果、コンモドゥスを支える人材の不足や陰謀等による人間不信の蔓延など、時代の不運も重なり、コンモドゥスは失政を重ねた後にほどなくして暗殺され、以後のローマ帝国では皇帝が短期間のうちに次々と暗殺されたり交代を余儀なくされるようになった。また、皇帝自らが長期的ビジョンをもって政治にあたることもなくなる一方、ローマ帝国の安定と秩序維持の要であった軍全体の統制を掌握しきれなくなり、これがさらなる政局と社会の混迷をもたらし、3世紀の危機を迎えるきっかけとなった。

マルクス・アウレリウスの後継者人事について、塩野七生は『ローマ人の物語』の中で、コンモドゥスを後継者に据えなければそれを不満に思ったコンモドゥスにより内乱が起こりかねなかったという点を指摘し、実子を皇帝候補とした後継者人事のあり方に一定の理解を示している[2]。また、マルクス生存中の若きコンモドゥス自身、特に愚行を行うこともなく、暴君化するのは実姉による陰謀以後であったこと、そしてコンモドゥス以外を後継者とした場合は不平分子にかつがれての内乱という最悪の事態が危惧される状況であったことを踏まえると、当時の後継者人事においてコンモドゥスを次期皇帝候補に指名する以外に選択肢はなく、当時の状況において他に望ましい候補が見当たらなかったことも推察される。いずれにせよ、実子コンモドゥスの後継者としたことで、皮肉にも1世紀近く続いた皇帝の長期政権のシステムは崩壊し、それにより享受されたローマ帝国の安定(パクス・ロマーナ)は徐々に失われていった。