十六歳の日記(1964) | mitosyaのブログ

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十六歳の日記(1964)

 

日記の書き方 ありのままを、本当のことを書く 手短に、分りやすく 毎日続けて START 一月十六日 今日は工程へ着いた、先頭だ。コンベアシステムは軽労働だが疲れる。その時考えた。毎日このように疲れ、早く仕事が終わることばかり考えていたら、早く歳をとってしまうと。人生は短いのだから、明日死ぬかもしれないのだから、今日という一日を充実させていかなければ、そのためにも日記をつけようと思った。 桐の花  千家元麻呂 草原に桐の花がこぼれていた 美しいと思った 拾ってにおいをかいで歩いた 二月一日 僕は自尊心が少し強すぎると思う、だから今日から、次の五原則を守って誰からも好かれるような者になれるよう努力したい。 規則に従う 相手を尊敬する 公正である 協力 最善を尽くす 二月二十日 毎日が同じことの繰り返しで、何の目標もないままの生活に不安を感じた。そこで考えた。ポケットに手帳を入れて、悲しいとき、苦しいとき、楽しいとき、詩を作りノートに書こう。それと歌集も入れておこう。 「太陽の彼方」ビシビシビシ、 ブレンダリー「この世の果てまで」 四月三十日 朝七時起床、八時二十分出勤、半から仕事、不良多し、気分すぐれない。そして知らぬ間に昼。弁当のおかずは鯛のかまぼこ、蕗の煮つけ、ちょっとうまかった。昼休み、みんなキャッチボールやバレーボールをして遊ぶ。僕は一人読書「芥川集」を読む。そしてまた仕事。ただボーとして仕事は終わる。夜、学校へ行く。学校では森川君とさかんに話を交わした。帰り道ソバ屋へ寄る。ソバ(四十五円)、クリーム(二十円)コーヒー牛乳(二十円)生ジュース(十円) 五月四日 夕べは石塚君と夜遅くまで、自分というものについて議論した。そして人と接する事の喜び、目的の必要性を再認識させられた。彼には何か信条というものがあるようだ。だが僕には語れるような信条というものはない。 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」という言葉はけしてのどかに生れたものではない 「侏儒の言葉」より 六月十二日 久しぶりに日記をつける 「吹けよ北風」津村節子を読んでいて、急に日記をつけたくなった。 会社へ十時半に出勤、部品欠品のため午後から休み。 学校一時間目、美術。藤田君の絵の具で、わけのわからぬ絵(女)を描いた。二時間目、英語。私は中島先生の一方的な授業にうんざりしていて、もっと楽しく出来ないものかと思い、隣の村雲君や、渡辺君とふざけていた。すると、本読みが私に当てられた。私は読むところが判らなかった。その時、村雲君に聞けば分かったのだが、聞く事をしないで、「どこを読むのかわかりません」と、素直に自分の非を認めるように言った。すると中島先生は何事もないかのように、ページを言った。もっと楽しく勉強がしたい。 読書 「ぼっちゃん」「文鳥」「草枕」「我輩は猫である」夏目漱石 「銀の匙」中勘助