人生に相渉るとは何の謂ぞ 北村 透谷 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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 人生に相渉るとは何の謂ぞ

北村 透谷

  明月や池をめぐりてよもすがら
の一句なり。
 池の岸に立ちたる一個人は肉をもて成りたる人間なることを記憶せよ。彼はすべての愛縛(あいばく)、すべての執着、すべての官能的感覚に囲まれてあることを記憶せよ。彼は限ある物質的の権(ちから)をもて争ひ得る丈(だけ)は、是等無形の仇敵と搏闘(ばくとう)したりといふことを記憶せよ。彼は功名と利達と事業とに手を出すべき多くの機会ありたることを記憶せよ。彼は人世に相渉るの事業に何事をも難(かた)しとするところなかりしことを記憶せよ。然るに彼は自ら満足することを得ざりしなり、自ら勝利を占めたりと信ずることを得ざりしなり、浅薄なる眼光を以てすれば勝利なりと見るべきものをも、彼は勝利と見る能はざりしなり。爰に於て彼は実を撃つの手を息(やす)めて、空を撃たんと悶(もが)きはじめたるなり。彼ほ池の一側に立ちて、他の一小部分を睨むに甘んぜず、徐々として歩みはじめたり。池の周辺を一めぐりせり。一めぐりにては池の全面を睨むに足らざるを知りて、再回せり。再回は池の全面を睨むに足りしかど、池の底までを呪らむことを得ざりしが故に、更に三回めぐりたり、四回めぐりたり、両して終によもすがらめぐりたり。池は即ち実なり。而して彼が池を睨みたるは、暗中に水を打つ小児の業に同じからずして、何物をか池に写して睨みたるなり。何物をか池に打ち入れて睨みたるなり。何物にか池を照さしめて睨みたるなり。睨みたりとは、視る仕方の当初を指して言ひ得る言葉なり。視る仕方の後を言ふ言葉はAnnihilation の外なかるべし。彼は実を忘れたるなり、彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる。杜鵑(とけん)の行衛(ゆくへ)は、間ふことを止めよ、天涯(てんがい)高く飛び去りて、絶対的の物、即ちIdeaにまで達したるなり。

然れども斯(かく)の如き狭屋の中には、味もなき「義務」双翼を張りて、極めて得意になるなり。剛健なる「意志」其の脚を失ひて、幽霊に化するなり。訳もなき「利他主義」は荘厳なる黄金仏となりて、礼拝せらるゝなり。「事業」といふ匠工(たくみ)は唯一の甚五郎になるなり、「快楽」といふ食卓は最良の哲学者になるなり。ぺダントリーといふ巨人は、屋根裡(やねうら)に突き上るほどの英雄になるなり。凡ての霊性的生命は此処を辞して去るべし。人間を悉(ことヾヽ)く木石の偶像とならしむるに屈竟の社殿は、この狭屋なるべし。この狭屋の内には、菅公は失敗せる経世家、桃青は意気地なき遁世家、馬琴は些々たる非写実文人、西行は無慾の閑人となりて、白石の如き、山陽の如き、足利尊氏の如き、仰向すべきは是等の事業家の外なきに至らんこと必せり。
 頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広闊なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾(なんぢ)の Longingを空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの天職を捉(と)り来れ、鳴呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ。

北村透谷

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北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)は、明治期に近代的な文芸評論をおこなった人物。詩人。島崎藤村らに大きな影響を与えた。

人物
神奈川県小田原で没落士族の家に生まれた。本名は北村門太郎。両親とともに上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通った(のちの筆名・透谷は「すきや」をもじったもの)。

1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学(東京専門学校には、明治19年頃まで籍を置いていたとされるが、卒業はしていない)。自由民権運動に参加したが、運動は次第に閉塞してゆく時期であり、大阪事件の際同志から活動資金を得るため強盗をするという計画を打ち明けられ勧誘され絶望し、運動を離れた。1888年、数寄屋橋教会で洗礼を受けた。同年、石坂ミナと結婚。

1889年『楚囚の詩』を自費出版したが、出版直後に後悔し自ら回収した。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論『厭世詩家と女性』を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や木下尚江に衝撃を与えたという。1893年に創刊された『文学界』誌上に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆(当時は尾崎紅葉ら硯友社の最盛期であった)。また、イギリスから来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトと親交をふかめ、その影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴し、日本平和会の結成(1889年)にも参画、機関誌『平和』にも寄稿した。しかし、日清戦争前夜の国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、1894年、芝公園で自殺。享年27。

透谷の作品群は、上記の近代的な恋愛観からも窺えるように、ロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し、人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している。藤村は『桜の実の熟する時』『春』において透谷の姿を描いている。

作品
人生に相渉るとは何の謂ぞ
内部生命論
厭世詩家と女性
蓬莱曲

関連項目
自由民権運動
詩人
ロマン主義
明治女学校 (講師として出講)