私はここに於いて始めて誕生し | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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あの時、再発を覚悟し、君と検診結果を待った、誤診ではあったのだが、再度の奇蹟を感じる、も早何の理由も要らない、二人を生きるだけ、紫陽花の花を、一番きれいな時に、見に行きたいね、自然と日常の世界に、君と私は偶然的に存在し、私と君は、人生とは時空の旅であり、毎日、ハネムーンを生きていくのだと、私対世界を、世界とは、君と私の意識存在なだけ、木が、木の生命の先端を生きていくように、私という意識が、一日、一日、という時の先端を生きていくことなだけ、この世界へ私は何をしに来たのか、ただ生まれ、ただ在るため、元気になっている、私の世界、私の愛する世界、世界とは可愛い存在、私と同じ健気な存在、死んだ人々の笑顔が浮かび、公園にはヒヨドリが来ているし、秋の陽は照っている、木の葉は光っているし、風はそよいでいる、私の存在意味とは、君に対しての意味、それだけで喜び、感じられ、元気になっている私は、世話をしたいのだった、植木や、ブンへのように、炊事、洗濯、掃除と、アリ社会が与える喜びで構成されているように、私の喜び、私の役割と、何人であってもそれは同じで、生きて在る意味で、私とは存在なだけ、人類消滅後の無意識世界、人が現存在であろうが、なかろうが、永遠の時の中の一瞬の生成、宇宙の彼方より眺めた、地球の生命と同じように、意味は人において、地球において考えられるだけのもので、その意味とは必要性、生活実感程度のことで、生活そのもの、存在そのもののこと、生命はただ生き、ただ喜びと50億年を、君と私、もう十ケ月を二人を生きる事だけで生きている、君は私が癌の再発ではなかったから、私の癌が治ったからと、二人を生きることが必然となり、何度でも蘇る、新しい一日、新しい存在、君と私が世界であるという感覚、地球には日が照り、雨が降るんだ、と不思議の眼で眺め、何が良いとか、悪いとか、何が幸で、不幸とか、判断する必要もなく、そうした物差しは消え、存在そのものの意識が、ただ日常においては、自在さを持ち、愛とは共に死すことと、いつ死んでもいいねと日々を生き、嘗て石であった私が、世界、時空を母とし、存在が母で、私は存在の子供で、私対世界の私は、石や木達が世界に対して、世界そのもののように、存在を存在していくように、私もそれらと何ら変わらない、ただ意識という四十七年の記憶作用なだけ、二、三年の寿命と覚悟した時が、今、無限に、明日迎える朝は、新しい朝、奇蹟の一日、今日は誰も死ななかった、今日は誰も病気にならなかったと、死が自覚された存在の一日に、今日、私が石を見る、私が見たから、石は意味を持ち、それ以前は無意味、私の有用性からではなく、私の意味において現れた石の意味、始原の意味、存在と意味とはこうした無数の私の意味によって構成された、この石は誰が見たもの、この木は誰が見たものと言うほどのこと、今日という、この一日、残された時と喜び、許された存在、私はここに於いて始めて誕生しているのだった。

         一九九六 三 二十二