一人になって愛し、愛されること | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

一人になること、一人になって愛し、愛されること、何ものからも自由に、無重力、自在になるとは、一人対世界を生きる意識の中にあり、人はその意識に立ってこそ、神からの恩寵を感じ、私対世界という、実存、無重力の、世界との関係になり、見出された意味とは、時間、存在と同じものだが、生を自死で、愛する者との死で以って終えるという意識が付加され、それは日々見出される意味となり、二人を生きるとは、エイズ患者の生の意味のように、個の生を、エロス、アガペ、全てを含んだ、世界と向き合った日々刻々を生きていく中に、全ての意味を求め、一人の人間をかつて愛した心があって、初めて世界が愛しい存在となり、世界を激しく愛するとは、一匹の虫に、木に寄せる思いと同じで、愛の最高形態が、愛する者の死の引き受けであり、それを決意しているという君、柿田川、笠間、常滑の記憶が日々訪れ、一緒にいるだけでいいと言う君と、電車で津田山まで、乗客のいない車内で、二人座って往復して来ただけ、夕陽がホオズキのようにキレイねと見つめ合い、偉大なる日常ほどに、私が愛し、愛されるものはなく、そこに全てが含まれて在り、日常というもの、世界は愛し合っているのだろうか、出会う必然があって、人と人は出会い、優しさを求め、優しさを示し、生きていることの刹那を、喜び求め、喜び伝え、穏やかな、満ちたりた心となって、それだけを楽しみ、生きてゆき、滑らかな言葉、表情となって、人と人は一体を感じ、世界が優しく感じられ、夢で幸せと言ったら、人の意味が全て解り、新婚時代より今の方がずっと良い、不安がなく、性の自由感、解放感があり、私が生きているだけで喜ぶ、君という存在、幸福感、この日常と現実に向き合うということは、君の喜びと向き合うということ、一日を生きるということが、二人の一日だけを考えることに、名実共に一日を生き、旅行、散歩、食事、風呂、買い物、etcが本日限りの、二人の、一回性のものとして実感され、何も書いていない、本も何も読んでいない、TV、新聞も、一人でやることが何もない、知識は無意味に、生きる上で、二人を生きる上で少しも必要とは思えず、生き始めた二人にとって、早、充分な知識、思考は持っているのだった、二人を生きるとは、実にシンプルライフであった、生きる理由がなくとも、解らなくとも、喜びが一杯あるということ、可能性の、希望の行動であることの確認、汝死を忘れるなとは、私の自死の覚悟で充分であった、言葉にする必要などなく、君、私がどこまでも先を目指し進んで行くことが、好きを持続させて行くのだと、
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