死にたい時に死ねばいいのだった | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

これら現実、日常というもののもつ魔性、人を貶め、惰性というものに、日常とはそうした虚構以外の何者でもない、異常も、正常も、全て飲み込む、生命の母なのだった、もし真実を発見したのなら、その場所で、その時を愛して生きなさい、けっしてその真実を、君の青い鳥を手放さないように、死ぬまで抱いて生きて行きなさい、忘れた時は死です、私はもはや、誰からも愛されたくない、私を真に必要とする者を愛すばかり、その人が望むのならば、私は何でも、生命でも差し上げるつもりです、肉体など一体何になるのか、欲しい人はどうぞと、私は男娼にでもなって、聖書とは何と人間臭いものだろうか、仏典とは何と形而上的なのだろうか、二つのこの世の花、ユリと蓮のように、私は君の為に泣いたのに、私は君の不幸に泣いたのに、君は何も求めてはいなかったのだ、押し売りなどするつもりはなかった、初め私の死に、私の不幸に、共感し、自分を発見し、が、途中、変化、全て捨てなければ得られない、不可能性を知り、錯乱へと、未だ罪は知らず、人は死を愛して発狂はしない、人を愛して発狂するのだった、ガルシンの赤い花、あれは人の代用、良かったね、愛が発見できて、幸福が足元にあることが解って、しかし、私にはまだ、死への可能性が残されてあり、君も無関心、世界も無関心、死んで行こうとしている私にとって、ムルソーのように、無関心だけが救い、聖書の意味、やはり生きていく上で、究極ではあるのだった、生きて下さいと、叫んだ少年の日の私が、記憶されてあるから、その私が私を活かしていけるのか、ずっと自死というものを意志していたのに、一瞬現れた生きる希望、意味、必要、今また失せようとし、再び探すのは疲れる、私は何かから解放されるために、求めてきたのではない、解放はもうとうに、少年の日に終わっている、ただ私の意味を求めてきただけ、癌患者どうしの、エイズ患者どうしの、いつかエイズの少女が、世界のエイズの子供を励まし、一人の男の子の死を悲しんでいた、いま少女の愛を知る、末踏何度目か読む、私が掴んだものを再確認するために、人は何れ日常に帰ると、一度味わった、愛の不在は大きい、そして、掴んだ精神は物質と化して、私は十年を生きていて、五十才でいいと、私はやはり癌を生きて来たのだった、誰からも、何事からも自由でいられることを目指し、いつ死んでも良いようにと、朝、無数の人が、犬が、早足で歩いていた、何だろう、この光景、彼等の健康志願、肉体だけの長寿、あと数千日の命だというのに、彼等死んでいるよう、いったい君等は何者なのだ、私だけが死の意識存在だなんて、私だけが全宇宙だなんて、神と繋がっているではなく、私は神なのだとは、意識とは全能を感じさせる、山を動かし、海を割る意識、意識とは、宇宙の剥き出しの生命、私も朝、子どもと一緒に起き、会社勤めをしたことも、が今、私はそのようには生きない、何者からも自由な、自在な、存在に対しても、も早何も見ることの必要を感じない、あらゆる出来事、存在に締観、私の意味とは、イエスと同じ、物事を確信的に語るだけ、私を誰も十字架には掛けない、イエスの喜びもこの確信の中にあったのだろう、否、私はもっと自由、誰も私を求めてはこないし、私に意味はない、私は私を抱くだけ、イエスのように、私が犠牲となって、後、復活する必要もない、彼がやってくれたから、私は自由に、死にたい時に死ねばいいのだった、ブンにとって死が何でもないように、私にとっても何でもないものに、出来れば、春風に寝て、新緑の中でと、
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