愛の絶対性というもの | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

「心臓がドキドキしてくる」、「冗談だと思ってたことが、本心だったと気付かされて」、「眠れない、夜中に突然に目が醒め、苦しくなる」、女の愛というもの、男にとっての愛の持つ意味、今の私に女なんて関係ない、何も信じてはいない、私の作品を読めば、自分自身を発見するだろう、もう一人の自分を、それだけのこと、そこに愛など成立しない、私が、ローザ、ベイユ、etc、の女を考えるのと同じように、人間への考えがそこにはあるだけ、実存とは一人で、単独者で生きる道なのだ、淋しかろうが、悲しかろうが、そうしたものなのだ、そこからしか、あの不条理への闘いは始まらないのだし、闘い続けられない、忘れられる者は、忘れた方がいいのだ、作家とは忘れられない人間なだけ、感じる者、論理の人ではないのだ、私が到達点を作品化するとは、愛、日常、現実、肉体、etcの存在からの、離脱や解脱などではなく、また消滅などでもなく、生きる限りは浮遊、自在を、生は自死で以て、意志、意図の中で完結しようと、明確な意志と囚われない心で以って生きたいと、綺麗でもなく、美しいでもなく、ただ可愛い存在、性を意識しないでよくなっている、木や草に接するように、いま女が眺められる、今や愛されることなど、必要ではなくなっている、ただ存在が、これは、一人に、絶対的に愛されていることの意識によるものなのか、もしそうであるのなら、君の言ったことは当たっている、代用ではない、必然と、必要において、愛されることによって、人は生き、意味を感じると、「我が子を可愛いがることができなかった」「魂の本当の話を出来る男を求めていた」、君から学ぶものとは、青春とはストイシズムであって、大人のアンニュイからの実存ではないのだった、泣いて私の手にゲロを吐いた女、「手に入れられたら終わりなんです、手に入れられないから良いのです」と、癒されない魂、裸の魂、傷ついた魂、剥き出しの魂、君に無償の愛が持続できるだろうか、マリアの、カフカの、魂の葛藤に耐えられるだろうか、もし耐えられず、共通のテーマとならないのなら、形式だけでも試してみよう、肉体と精神、けっして肉体に支配されない精神というものの確認、「性愛とは一回でいい、死ぬ時でいいの」と、フォーレのパバーヌ、その私が歩んで来た、困難な道のりを表しているような、涙が、G線上のアリアとも、主よ人の望みとも違う、私そのもののように聞こえ、そよぐ風のように、さざ波のように、追憶、過去、記憶が蘇り、女とは愛する存在なのだろうか、我が子への愛のような、しかし、我が子とは違った、所有されることのない、永遠の愛を求める存在としての、だとするなら、リルケは正しい、ナジャのような女、神の絶対的な愛、恩寵、多くの人がかつて感じたもの、この絶対的な愛の確認が、天国と永遠を意識させるのだろうか、君の愛は信じられなくとも、神の愛は信じられると、人の絶対への憧れが、そして何に憧れていたかが今解る、愛の絶対性というもの、
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