死を何によって忘却出来るのか | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

人が自殺者に貼るレッテルは、背徳、逃避、敗北、それでもどうして自殺をと、ビルのフェンスを越えて一人立つ時、これから後生きていて何の意味がと、愛した者が、愛する者が、縋り、死なないで、一緒に生きてと、その言葉はこれから先を、一瞬考えさせはするが、一人を生きようとする時、これから先何ほどのことがと、いずれ死ぬのに、何の為にと、今、不安が、自己を守れない不安、自己を貶めるような苦痛が、生きようとする心を挫く、耐え生きている者、いくら励まされても、私を私で守ってやれないことが不安、私を守れない者に世界など、今や私は空の上から見、虚空に向かってしゃべっているのだった、人とは語っていないのだった、木と石に語っているのだった、君は今日も耐え生きている、君は私一人の死を悲しんでいる、私は生きたかった、私は歌う、私は無念と、殺された者の声が聞こえ、それでも私は去ろうと、意味を何によって回復し、死を何によって忘却出来るのか、今、人の生命が挑戦を受けている、私という生命を慈しむ行為へ、私が私の膝を抱くようにして、私の生命を生き始めねば、世界のあそこ、ここで、それぞれが挑戦を受けて立とうとしているのだから、私の生命は何より自身で守れてこそ喜び、なのに今日この秋の日に、旅立つ者があり、落日が台所の隅まで射しこみ、世界の悲惨に対して、何かをしなければと人は共鳴し合い、急かされるように、関わり、行動していき、生きる意味、理由は見つけているのだろうか、確かに意味は感じられるのだろう、人に求められていく自己、人に喜ばれる喜び、しかし、それが時として時の忘却に感じられるのは何故なのか、何か人の為、社会の為以外の何か自己の個的なものが求められ、存在への疑問が心を横切り、自省の時を抱き、あと十年を何かの為に尽くしても、それで何かが解決されたと感じられず、ただ私を忘却していくだけ、一体、この懐疑とは、私の本質なのか、自己の責任で死んでいくとしても、しかし、それまでの生きていく理由は、意味は、意味は解らなくとも、喜びの時があり、例えば、万年青の緑と白の縞模様の美しさ、散歩の時の落葉の様々な味わいのような、国、社会、世界に迄は、私の責任や義務は負えない、出来ない、せめて家族の範囲で、彼等が私の自由死を、止めて欲しいと言えば、生き抜くことに成る、私の今の予定死ではあるのだから、彼等と掛けがえなく生きて行く、私は生かされて在るのだから、生還した私は、も早、死にゆく人と同じように、人や社会と違った位相を生きているのだから、求められる人生の虚構化は疲れる、私はたった一人の私でいいのだった、見る私、見られる私、そしてそれらを見る私などと、私は一人に完全になりたいのだった、
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