自殺についての考察 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 あの時、読む本がなかった。読む本がないとは誰もが、死に臨んで、本など何の役にも立たないのだった、しかし、その途中、受容するまでは必要であった。何かが、愛、使命、人との関係が、死ぬことが分かっていて、何故まだ人は人と関係しようとするのか。
 人間、先人の様々な仕事の影響を受け、それらが蓄積され、文化というものが維持、継続され、進歩といわれるものを続けている、しかし、多くは二番煎じに思える、二千年前となんら変わらない、見る者、聞く者をして、人間に必要なものは、人間に誕生した時の、猿から人への、誕生した時の感覚の再生、未だ見い出されていないものの発見、そうしたものでなくては。人は絶えず生きることに倦み、ニヒリズムに陥いる。
 
 自殺についての考察
積極的な自殺の肯定論理、タブー視されている自殺、安楽死を、感覚的、論理的にも越えること、私の感覚にすること、どのようなプロセス、きっかけで考えたのかも、実存開明、生き難いから自殺ではなく、自殺の自由性、運命に作用されない、自己完結性、生命への主体、癌、エイズが人という種への自殺機構として今発生しているということ、昔観た映画「イエローングリーン」、老人たち、「田園」を聴きながら逍遥と死んでいった。
 崖の上からの自死
死を待つ、受容しているのとは違った、足がムズムズし、空中浮遊の感覚、肉体が砕け散る一瞬の衝
撃の感慨があり、肉体と精神が一緒に砕け散った、血と肉の飛び散った様が思い浮かび、完全な自己
破壊の快感を感じ、心が和む、私を私でもって処理したとの、
 銃による自死
銃は何か意識だけを殺すようで、肉体は抜け殻となって晒されるようで、そんなことは意識の無くな
った私にはどうでも良いことなのだが、意識だけを恐れていたようで、後味が悪い、やはり崖の上か
らのダイビング、そして飛び散る私の肉体と精神、
 冬山での凍死
経験は無いのだが、眠りながら死んでいけるという、あの睡魔に逆らうことの苦痛、電車で、運転で
、それが従容とあの睡魔に身を任せてなら、何と良いものであるのか、自然な安楽死。
 睡眠薬での自死
冬山での眠りを、薬でやろうとするものか、あの手術前の、数秒後の眠りであるなら、いや煙草を吸
って、酒も少々飲んで、物達に、生きもの達に、別れも告げて、眠るように死んでいけるのなら、こ
れが一番いいのだが、場所が問題、Oのように見つかってしまってはつまらない、
 電車に飛び込んで
Sの妻はホームから舞い降りるように、急行電車に激突して散ったと聞く、衆目に肉体を晒すことは、
 入水による自死
昔、三ツ池ではよく子連れ自殺があった、そこには地蔵が何体も置かれてあった、太宰も、水死は溺
れた経験があるだけに、あの苦しみは嫌だと思う。
 何故に自殺か、Oが肝炎が治ったと聞いたら、もうそれだけで充分だと、その後どうなっているのかは検査したくないと言った。死を覚悟していた者にとって、一旦死が遠退けば後はいつ死んでもいいかなのであった、今度は死を迎えてやる、待っていてやる、徒らな治療などはしまいと、生きる意味は無い、死を生き出した時から、充分に生き、意味を味わってきたのだからと。
 生命の意味 私の存在意味とは、いくら生きたとしても、家族のため、人と会い、芸術、文化を楽しみと感情の快楽に奉仕するばかり、私の個的な存在意味とは、老人が年間二万人自殺しているという、これは世界ðb二位だと、きっとこの十倍は自殺志願者がいることだろう、病死の老人も大半は自殺志願者であるのだろう、あのK老人、S氏等に見る、積極的治療などしないで、癌死していった。社会、人間関係、又は希望への感情が不備ではあるのだが、人の自殺は其れだけではない、風土、環境、否定思想、無常観、浄土思想、等、等。生まれた子供に喰われ、子供に自らの身体を捧げ、死んでいくクモの姿は、何と気高いことか。
 ニィチェは徒労と闘った、魚のいない川で魚を釣り続けた、我が人生は、人の生とは全て徒労であると、人の極限とは何か、いつ死んでもいいかを、一歩進めて、自らの必要においてこの世を去る、其れが自己への責任の取り方、徒労への答え、再びは騙されないと、自らの運命を自らに掌握すること、徒労に対する闘い方は、自ら死ぬこと、生命が生きる本能に支配されているとするなら、それをも覆す力こそが人には必要、危険に晒されると死んだふりをする虫がいるという、本当に死んでしまう虫を書いてみたいのだった。
 自殺でもって私の人生を閉じるとの覚悟が出来て、私は完結した、老いてなお生にしがみつくなど、老いてなお、生を味わおうなど、貧欲過ぎる、もう充分だと、意識の健康さの中で、悟りなどではなく、緊張のうちに、生を完うするプロセス、これが出来て初めて自己に責任を持っていると言えるのだった。あの時私は死んだのだった、あの時以来この世が天国となり、意味は存在だけとなった、人の意味は存在することの喜びだけとなったのだった、食べれて、歩けて、考えられて、感じられて、是れだけで無上な生活に変わった、以前の私は死んだのだった。
 無目的な目的、無意味な意味を信じて、働き動き、しかし、それらは何ら意味、目的を持ってはいなかった、あの時以来の静かな、物たちとの一体の意識の内にあっては、あの世から見ているような感覚であるのだった、彼等無意味を生きているのだった、私は余命半年ではなく、早六年もこの天国を生きているのだった、只在ることが天国、これでいいのだった。
 実存感覚 時間の感覚がある、一日、一年、十年、ほんとに十年はあっという間、一日は結構長い、
自殺又は極限を生きる覚悟はある、が、私の他所有化は耐えられない、人間の定義が意識する存在であるなら、最後まで、意識し切って生きて行く。
 昔私は石であった、昔私は空間であった、石も空間も、今のあやふやな有機物の存在を思うと、懐かしく、確かな私の故郷に思えてくるのだった、早く石に、空間に帰りたいとおもうのだった。輪廻転生を確信する、何十億年か後、いずれまた私は戻ってくる、この世界へ、石に戻りたいと思ったとき、輪廻転生は希望、真実となった。生きるための死ではなく、死のための生へ、死が親しいものに。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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