現代にあって何が問題か? | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 Sに虚しさを語って、共感を得られなかったことの虚しさ、虚しさを真に語るべき人間は今やいな
いのだった。さらにOとも、今や彼等は私に虚しさの共感を求めてはいないのだった、彼等は私から
、生きるエネルギーこそ求めていたのだった、青春ではないのだった、今や皆老境なのだった、かつ
て、Oの虚しさに涙したのに、Sの虚しさに心痛めたのに。
 文学青年であったKさん、理想を追い掛け人生を過ごした。が、結果むくわれたものはなく、病床にあって生活の不安、残していく妻の心配にとらわれ、自らの死さえも忘れ、喰えなくなったら、新聞の小さな記事の中の、変死者のように、文学、思想も、公園の浮浪者の人生、生命と何ら変わることなく、自らの責任において、生き死んでいくのだ。考え続けるということは、意識し続けるということは、心の中に物質のような、核のような確かな存在を作らせる。人は生き方を変えなければ、シンプルイズベスト、自然との共生、自由、神秘へ。
 そのあいまいさと必然 暖かいベッドがいらないわけではない、うまい飯が喰いたくないわけでは
ない、カカアも、子供も、一緒に暮らしたくないわけではない、しばられ、どやされ、時間におわれ
会社に行き、嫌なことと引き換えにすることがしたくないだけ、覚悟ほどのものではないけれど、死ね
ば楽になれるだろうと生きているだけと、公園の浮浪者。
 現代にあって何が問題か?~人は極限においては解らないが正解、真の平等、豊かさがもたらされ
るならだが、しかし圧倒的多数の人の常は自己保身が正解。
 死など畏れない、死ぬ時は死ぬのだと、健康である時人はそう思う。生あるものはいずれ死ぬのだ
と、かつて誰もが死んだのだからと、死をつきつめることなど人はしない。また病人は自分のことで
精一杯、人のことなど。だとするなら、かつて私が感じた、実存の感覚、異化の感覚、自分の重さの
覚醒しかないのだろうか。
 何故生命は死を求めず生を求めるのだろうか、遺伝子の働き、そこに生きたいとする物質の作用が
あって、私の死への願望が打ち砕かれるのか、もう何もいらないよ、疲れるよ、もう充分だよ、食べ
たい、歩きたい、眠りたい、楽しみたい、と際限がないよ、一日生きるということは、何事かの欲望
を満たすということ、一遍の捨てる考えも、結局はただ一つの生命だけは捨てはしないのだから、そ
のただ一つの最後の全ての根源である生命を捨てる心とは、そう思うと梶井の世界もそれら死を浮き
たたせてはいない。
 アウシュビッツからの帰還者が何年か後には、無気力、怒りに陥り、自殺したと言う、危機を一度
体験した者にとっては、日常での努力ほど無意味を思いしらされることはないのだった。世界がすべ
て生の肯定、喜びの為に在ることがたまらないのだった、私の苦痛、私の悲しみ、私の不安、私の怒
り、私の、私の、私は私を否定しないではいられないのだった。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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