思想のオブローモフ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 庭先の婦人、夫が残した少しばかりの盆栽をまるで、夫が世話をしていた時のようにやり続けている、
枯葉があれば取り除き、芽を摘み、位置を変えたりと、盆栽の世話が夫への供養のように今日も、あと数年の生命かも知れないのに、めっきり顔に皺がより、腰も曲がってきたのに、 人は充分に楽しんでいる、何も語ることなどないのだった、自らに向かって書けばいい、ブンが一ケ月1000円で生きている、それでいて、あれだけの喜び、家族を迎え、散歩、食事、睡眠と、私家は一ケ月40万で暮らしていて不安を、鳥、虫、生きものたち、繰り返される喜びの中を今日も生きている、ヒヨドリ四時には目覚め叫び出す、ブンの家族を見つめる眼がうれしい、ブンの走り回る元気さがうれしい、ブンの家族の帰りを飛び上がり迎える姿がうれしい、チベットの死者の書、死後の導きを書いている、それをエイズ患者に読ませていた、わたしは詩でイメージで、メッセージで死に行く者に語ろう、父、母のこと、ブンの顔の中に父の顔を見つけ、昔、父母が一時、仲良く働いていた頃を思い出し心なごむ、オルカ キミタチハ コノチキュウノ ナニヒトツ ケガシ コワスコトモナク コヲウミ ソダテテシンデイク 君たちに罪はなく あるのは私達 誰とでもいい、一人の人間に対して言いようのない共感、一体を持ちたい、また存在にたいして、言いようのない喜び一体を持ちたい。永遠、無限の中の瞬間の私という関係において、人間が民族、国家を越えて一つになるような、もう一段高い段階の文化を、この文化とは一体どんな文化なのだろう、人類全体としては無理であるなら、一人対世界の関係だけでも、宇宙に人類と同じ、又更に高度な文化があったとして、その彼等と交流したとしてどうなのだ、人類にだってこの五十億年のDNAの到達があっても超えられない、何も成せない、空間や存在が見えない世界が宇宙にはあるだろう、私の死、人の意識の消滅の世界、意識が作用しない世界、永い沈黙の世界、ビッグバンが、ブラックホールが、五十億光年が、人間はじつに多くのことを考えてきた、が、何も見ていない、何も成せてはいない。思想のオブローモフ、ああも考え、こうも考え、が、結局何も出来ない、Sが落ち込んでいて、死にたいと言った、私は淋しくなるからと、思わず涙ぐんだ、しかし彼は、死ねば人の心に残ると、自殺した彼女は今も自分の心に二十五才のままだと、死にたいという者へ、淋しさを表明するとき、私の心は泣く、人間の完全な姿としてのマリアとイエス、幸せとは善い心の状態のことだろう、感謝の心であり、奇跡の心であり、泣く心、コルベ神父が身代わりとなり生かされた九三才の老人、「生きている限り私はコルベを語るだろう」、「生きていることが責務だった」と、人によって助けられたその人が生きて、現存して、一人の人の死を、死んで一人の人を生かしたという証を、
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