作為や、手段ではない私の文学 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 ドラマは内から内を見ているようなもの、時には内から外を見ているものもあるが、私は外から内を見るものが欲しいのだった。地球の外から、私の死後から私の心の外から見たものが。いつ死んでもの視点はそうした外なる所から内を見ようとしたのだった。真の自由、真の私とはこうした視点の獲得だったのだ。内奥からの外界の視点の獲得。言葉ではなく感じ、永遠から現在を、宇宙の無限から地球を、内から内を見ている限り、今、安定、平和、と内の中ばかりに目が向く、外から内を見ると、自分の一生を、時間、永遠の中に置いて見ることとなる。
五十才で六十才でと寿命が見えて、日々刻々を意味の糸で結び生きて行くこととなる。全て意味の在ること、存在そのものであること、存在こそが意味のあることと見えてくる。この意識は存在の意味を浮かびあがらせてくる。見ることが存在であることと、客観視が外から見ることではない、外とは真の外なのだ、神の視点とは方法論ではなく、永遠から見ることなのだった。
現在から過去を見ても仕方がない、過去は存在していない、時とは全て現在があるだけ、どこにその地点があるのか、たとえピラミッドや、恐竜の化石があってもそれは現在に在るだけで、過去にあるのではないのだった、在るのは現在ばかり、時も空間も全て永遠なのだから、永遠の誕生、消滅がこの空間で繰り返されているばかり、地球は何度誕生、消滅したのだろう、永遠は信じられる、存在は信じられる、これらが私においては神、絶対、唯一なるものとなる。

 存在意味が私の発見であり、私の完成であり、私の喜びでありと、存在への完き私の即融であると考えるのなら、そのことの実行あるのみ、明日より私の楽しみ、私を味わい、存在を楽しみ一年を生き、考えてみよう。そこから生まれてきたものが私の自然な文学ということになる。作為や、手段ではない私の文学となる。私を、人を喜ばせ、味わおう。
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