情念論 デカルト  | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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世界文学大系

デカルト 

情念論 伊吹武彦 訳

 九〇

 これに反して快感は、快適なものの享受を人間に属するあらゆる善のうち最大のものとして示すために自然が特に作ったものである。それゆえ人はこの享受をきわめて熱烈に欲するわけである。なるほど快感にはさまざまの種類があり、それから生ずる欲望はみな等しい力をもってはいない。たとえば、花の美しさはただそれを眺めたい欲望をおこすだけであるが、果実の美しさは食べたい欲望を起こす。しかし、重要なのは、第二の我ともなりうると考えた相手のなかに想像される完璧さから来るところの欲望である。自然は理性なき動物と同じく人間にも性別をつくるとともに、脳のなかに或る種の印象によって、人は或る年齢、或る時期において、自分が不完全なものであり、あたかも全体の半ばであって、或る一人の異性が他の半ばとならねばならないと考える。したがったこの半分を獲得することが。想像しうるかぎりのあらゆる善のうち最大のものとして自然によって漠然と示されるのである。しかも異性は数多く目に触れるが、さればといってその多くを一時に望むのではない。それは、半ば以上を獲る必要があるとは自然が想像させないからである。しかし、或る一人のなかに、他の人たちにおいて同時に認められたものよりはいっそう意にかなうものが見いだされた場合、所有しうる最大のものとして自然が心に示した善きものを求めるという傾向、自然の与えたこの傾向のすべてを、心がただその人のためのみに感じることとなるのである。そして、このように快感から生まれる傾向ないし欲望は、上に記述した愛の情念よりはもっと普通に、愛の名をもって呼ばれている。それゆえこの愛は普通よりも異常な作用をもっている。物語作者や詩人の主要な題材となるのはこれである。

ルネ・デカルト(仏 Rene Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者。

概要
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり(Je pense,donc je suis. )」(Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(ラテン語訳))は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。

また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母国語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。

レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏 Cartésien 英 Cartesian)と呼ばれる。その他、デカルト座標系(仏système de coordonnées cartésiennes 英:Cartesian coordinate system)のようにデカルトの名がついたものにもカルテジアンという表現が用いられる。

形而上学

方法的懐疑
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。

この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。

この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。又、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。更に、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は悪い霊で、自分が認める全てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられる事になる。

この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。あるものが意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 Idea と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。

コギト・エルゴ・スム

『省察』(1641年)方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる事を発見する。有名な「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)は、デカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるラテン語訳である。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。

そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する。(明晰判明の規則)

のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした。(注 スピノザとカントはデカルトの継承者としてデカルトを読み替えていく)

神の存在証明
悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。

第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。

物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。

明晰判明の規則は存在証明によって確信をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。

なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。