自畫像 河上肇 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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現代日本文学全集

自畫像 河上肇

(附一)労農黨解消地下に入るまで

「自叙伝」を書き始めた頃の心境
 この稿の筆を執り初めた今日は、昭和十九年五月二十七日である。次第に自炊生活に慣れて来た私は、早く起きないと瓦斯が出なくなって困るといふ気遣いから徐々に解放されて来たものと見え、昨夜も早くから寝床に入ったにも係らず、今朝四時半、目覚まし時計によって始めて起床した。昨夜残しておいた雑炊が少しばかりある、私はそれを暖め、玉蜀黍粉を團子にしてぶち込み、それで朝食を済ました。更に一合三四勺の米を飯に炊いておいた。これは晝食と夕食とに充てる積もりのもので、もし夕方にいくらか残ったら、それをまた翌朝に回す。斯様にして私は成るべく配給量の範囲に食欲を制限したいものだと工夫している次第である。昨日各室とも鄭寧に掃除したから、今朝は食事を終えると直ぐに机に向かった。丁度六時四十分であった。玄関には配給米を受け取るための容器を出しておいた。やがて玉蜀黍の挽割粉と豆粕との配給を貰うために、行列に立たねばならであろうが、それ以外には、別に氣を配るべきこともない。朝来糠雨が降っている。静かな日だ。氣分も亦甚だ静かである。小さな机の側には、紅白の芍薬が首をかしげて咲き誇ってゐる。昨日塚本氏が持ってきてくれたものだ。
 
  紅白の芍薬あまた瓶に活けあばらやのおきなもの書きており

私は思わず今こんな腰折を口ずさんだが、どうにかかうにか食う物があって、静かに物を書いている暇があり、その上身辺に花でも活かっておれば、阿弥陀仏経に描かれている極楽浄土以上の世界に生きてゐるような氣持でゐられる。私は今無上の幸福を感じつつ、ここにこの原稿を進める。


河上肇
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


河上肇河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー小説『貧乏物語』で知られる。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。

経歴
山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。山口尋常中学校、山口高等学校文科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902年(明治35)大学を卒業。1903年(明治36)東京帝国大学農科大学実科講師に就任。その後専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任し、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。

1908年(明治41)、京都帝国大学の講師となって以後は研究生活を送る。1913年(大正2)から15年にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。帰国後、教授。1916年(大正4)から新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年出版。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、全体の主張は「金持ちの搾取論」で、革命煽動の筆力は抜きん出ていた。

その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進める。1921年(大正10)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文はのちに虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1922年、労農派の櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した。河上は批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。1928年(昭和3)、京都帝大を辞職し、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加。1930年(昭和5)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。

1932年、日本共産党の地下運動に入る。1933年、中野区で検挙され、治安維持法違反で小菅監獄に収監される。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。1937年(昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。第二次世界大戦中は軍国主義に対して何ら抵抗せずに事態を傍観していた。終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に逝去。1947年、『自叙伝』が刊行される。