日本古典文学大系
方丈記 鴨長明
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。世中にある人と栖と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて今年作れり、或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また不知、假の宿り、誰が爲にか心を惱まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争うさま、いはゞあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。
五
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて今年作れり、或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。また不知、假の宿り、誰が爲にか心を惱まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争うさま、いはゞあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。
抑、一期の月影かたぶきて、余算、山の端に近し、たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給うふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草菴を愛するもとがとす。閑寂に著するもさはりなるべし。いかゞ要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。
しづかなる暁、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり。栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行にだに及ばず。若しこれ、貧銭の報いのみづからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、兩三遍申してやみぬ。
于時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これしるす。
方丈記しづかなる暁、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり。栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行にだに及ばず。若しこれ、貧銭の報いのみづからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、兩三遍申してやみぬ。
于時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これしるす。
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『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた中世文学の代表的な随筆。
鴨長明が晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。鎌倉時代、1212年(建暦2年)に記されたとされるが、原本は残っていないと見られる。現存する最古の写本は大福光寺本であり、しばしば研究の底本とされる。漢字と片仮名、もしくは漢字と平仮名の混ざった和漢混淆文で書かれたものとしては、最初の優れた文芸作品である。また、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論でもある。 吉田兼好の『徒然草』が書かれたのは、この後およそ100年後である。清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。また、隠棲文学の祖ともされる。(慶滋保胤の『池亭記』を祖とする説もあり)
鴨長明無常観の文学と言われる。冒頭で移り行くもののはかなさを語った後、同時代・または過去の災厄についての記述が続き、後半には自らの草庵での生活が語られる。さらに末尾では草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定する。
文体
明快で、流麗。詠嘆表現や対句表現を多用する。和漢混交文。
天災・飢饉に関する記述
安元三年(1177)の都の火災、治承四年(1180)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の遷都、養和年間(1181~1182)の飢饉、さらに元暦二年(1185)に都を襲った大地震など、その前半部分はもっぱら天変地異に関する記述を書き連ねている。
後半部分に見られる、およそ貴族とは言えないような不遇をなぜ自分がかこたなければならなかったのか、その説明、あるいは言い訳であるとも想像されるが、今日的な防災という観点から見れば、きわめて貴重で興味深い資料となっている。
安元の火災
安元三年(1177)四月二十八日午後八時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。公卿の邸宅だけでも十六軒、一般家屋に至っては都の三分の一が焼失した。死者は数十人(『平家物語』の記述では数百人)であった。
治承の竜巻
治承四年(1180)四月、中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市上京区松蔭町、京都市歴史資料館の辺りか)で大きな竜巻(長明は『辻風』と記述)が発生した。風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞った。風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残された。竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺の手前辺りで消滅したものと思われる。
養和の飢饉
養和年間(1181~1182)の頃、二年間にわたって飢饉があり、諸国の農民で逃散する者が多かった。朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印という人が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、四万二千三百余に達したという。なお、この飢饉は自然発生的なものではなく、源頼朝・木曽義仲の挙兵や平氏の福原遷都によって都への貢米が押しとどめられ、食糧難に襲われたものであると想像される。
元暦の地震
元暦二年(1185)七月九日、大きな地震が都を襲った。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたという