エ セ ー モンテーニュ | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

イメージ 1

世界文学大系

モンテーニュ

エ セ ー 原二郎 訳

  第二十章 哲学をきわめることは死ぬことを学ぶこと

 (b)われわれは皆、おなじ場所に押しやられる。遅かれ、早かれ、運命の壷が振られ、籤が出て、永遠の死に向かう船に乗せられるのだ。

 (b)彼は道程をたずね、日を数え、道の長さで命をはかり、来るべき処刑に心を悩ます。

 (b)なぜわれわれはこの短い一生にやっきとなって多くを企てるのか。

 (b)死すべきものはたがいに生を貸し合いながら生きる。あたかも競争者が手から手へ炬火を渡すように。

 (a)われわれの生命はどこで終わろうとそれはそこで全部なのだ。(c)人生の有用さはその長さにあるのではなく使い方にある。長生きをしてもほとんど生きなかった者もある。この世にいる間はこのことを心にとめておけ。おまえたちが十分に生きたということは年数にではなく、おまえたちの意思にかかっている。


ミシェル・ド・モンテーニュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

モンテーニュミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者として知られる。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。

ペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城で生まれた。実家は商業を営み富裕であった。父は政治にも熱心でボルドーの市長を務めたことがある。母方はセファルディムの家系。ミシェルは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語を用いて育てられた。ラテン語は当時の学問に必須の知識であったとはいえ、このような教育法は特異であった。

トゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等裁判所(パルルマン)に務めていたときに、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエティーと親しくなった。エティエンヌは1563年に死去したため、モンテーニュは深い悲しみに沈んだ。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人である。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続した。1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を初めた。

法官辞任後、カトリックのシャルル9世、アンリ3世から侍従(非常勤職)に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリ(アンリ4世)の侍従にも任ぜられた(アンリは即位前の1584年、1587年にモンテーニュの城館を訪れたことがある)。フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。

主著『エセー(随想録)』Essais を1580年に刊行した(初版、2巻本)。

1580年から1581年にかけてモンテーニュはフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅し、様々なエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記した。モンテーニュの死後に原稿が見つかり、1774年に Travel Journal(旅日記)という題名で出版された。

1581年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して1585年まで(2期)務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。任期の終わり頃から、ボルドーではペストが流行し、モンテーニュもペストを避けて他所に逃れた(1586-1587年)。

モンテーニュは、アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。

エセー
『エセー(随想録)』Essais は、フランスのモラリスト文学の基礎を築いたとも評され、モンテーニュの主著である。法官辞任後、1572年以降に執筆をはじめ、1580年にボルドーで刊行された(初版、2巻本)。その後、1588年に第3巻及び初版(2巻)への大幅な加筆を行い刊行した(1588年版という)。晩年も死去の直前まで本の余白に書き込みを行っており、この書き込みも含めて定本とされている。

体系的な哲学書ではなく、自分自身の経験や古典の引用を元にした考察を語っている。宗教戦争の狂乱の時代の中で、寛容の精神に立ち、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。

17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。