新 生 ダンテ  | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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世界文学大系

ダンテ

新 生  野上素一訳

 しばらくのあいだ、私の目は涙を流し、私の悲しみを晴らすにはあまりにも疲れ果ててしまったので、なにか憂いの言葉を漏らして気を晴らすべきだと考えた。そこで、私は一篇のカンッォーネを書き、そのなかで泣きながら、その人のため大きな憂いが私の魂をうち砕くものとなったかの淑女のことを語ろうと決心した。そこで「心への憐憫のため歎く目は」で始まるカンツォーネを綴った。

心への憐憫のために歎く目は
涙を流したゆえに報いを受け、
力尽きて泣くのをやめた。
かくてしだいに死へとみちびく
憂いを晴らそうと思うならば
ただ悲しく歎くほかに道はない。
いまだかの淑女が世にいたころ、
貴婦人たちよ、私は彼女のことを汝らと楽しく
語り合ったのを覚えているゆえ、
婦人の高貴な心よりほかの
他のものと語るのを欲しない。
それゆえ君について語ろう、泣きながら。
たちまち御空へ昇り、私と共に
歎く「愛」を後へ残したのだから。

ベアトリーチェは逝った、高い空へ、
天使たちの安らかに住む王国に
共に住み、汝ら婦人たちを見捨てた。
彼女を私たちから奪ったものは
他のひとの場合とは異なり、寒さや暑さの性ではなく、その善き性であった。
それは彼女の謙遜の光が大いなる
功力をもって諸天をつらぬき、
永劫の主をおどろかせたため、
大いなる幸福の世に召し給うほど
床しい願いが御心へ浮かんだのだ。
下界から御許へ招き給うたのは、
悩み多いこの世は、かく美しい者に
ふさわしくないと思われたからなのだ。


ダンテ・アリギエーリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 - 1321年9月14日) は、イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家。

代表作は彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』および詩文集『新生』。

イタリア文学最大の詩人とされ、ルネサンスの先蹤ともいわれる。


生涯

ダンテ・アリギエーリダンテは1265年、中部イタリアにあるトスカーナ地方のフィレンツェで、金融業を営む小貴族アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ・ダリギエーロとその妻ベッラの息子として生まれた。先祖には、第2回十字軍に参加して1147年に戦死した曽々祖父カッチャグイーダがいる。ダンテは生後、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、「永続する者」の意味を持つドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri) と名付けられた。「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習的短縮形である。

正確な誕生日は明らかではないが、『神曲』天国篇第22歌の第109行から117行の中にその手掛かりが見られる。(引用は山川丙三郎訳『神曲 天堂』より)

わがかの金牛に續く天宮を見てその内に入りしごとく早くは汝豈指を火に入れて引かんや
あゝ榮光の星よ、大いなる力滿つる光よ、我は汝等よりわがすべての才(そはいかなるものなりとも)の出づるを認む
我はじめてトスカーナの空氣を吸ひし時、一切の滅ぶる生命の父なる者、汝等と共に出で汝等とともに隠れにき
この記述によって、ダンテがトスカーナに生を享けたのは、すべての生命の父たる太陽が黄道十二宮の金牛宮に続く双児宮のもとに懸っていた間ということがわかる。すなわち、双児宮のダンテの生誕日は、1265年の5月半ばから6月半ばにかけての間と考えられている。

少年時代のダンテについての確たる記録は乏しく、どのような成長過程を送ってきたかは定かではない。修道院で見習い修道士として修行してきたとも、没落貴族の子弟として世俗の中で育ってきたとも言われており、諸説は一致を見ない。多くのダンテの伝記は、ダンテ自身の作品である『新生』や『神曲』の記述に頼っており、生年月日すら詩文からの推定によるほかないのである。だが、少なくとも成長の過程でラテン語の古典文法や修辞学などを学んできたと思われる。

ダンテが最も敬愛する師として『神曲』に登場させているのは、『宝典』を著したブルネット・ラティーニである。ダンテはおそらく青年時代に彼から修辞学などを学んだとされており、『神曲』地獄篇第15歌で、男色の咎ゆえに炎熱地獄に配しながらも、「人間が生きる道」を教えてくれた旧師に対する敬慕を忘れていない。この頃、ダンテはウェルギリウスやルカヌスらラテン文学の教養を身につけた。また、ダンテはフィレンツェの詩人から大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げた。

ベアトリーチェ (Beatrice Portinari)
ダンテを代表する最初の詩文作品、『新生』によれば、1274年の5月1日に催された春の祭りカレンディマッジョ(Calendimaggio) の中で、ダンテは同い年の少女ベアトリーチェ(ビーチェ)に出会い、魂を奪われるかのような感動を覚えたという。この時、ダンテは9歳であった。

それから9年の時を経て、ともに18歳になったダンテとベアトリーチェは、聖トリニタ橋のたもとで再会した。その時ベアトリーチェは会釈してすれ違ったのみで、一言の会話も交さなかったが、以来ダンテはベアトリーチェに熱病に冒されたように恋焦がれた。しかしこの恋心を他人に悟られないように、別の二人の女性に宛てて「とりとめのない詩数篇」を作る。その結果、ダンテの周囲には色々な風説が流れ、感情を害したベアトリーチェは挨拶すら拒むようになった。こうしてダンテは、深い失望のうちに時を過ごした。1285年頃に、ダンテは許婚のジェンマ・ドナーティと結婚した。

二人の間にさしたる交流もないまま、ベアトリーチェもある銀行家に嫁ぎ、数人の子供をもうけて1290年に24歳の若さで病死した。彼女の夭逝を知ったダンテは狂乱状態に陥り、キケロやボエティウスなどの古典を読み耽って心の痛手を癒そうとした。そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて『新生』を著した。その後、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描いた。


神曲
ダンテが『神曲』三篇の執筆を始めたのは1307年頃で、各都市の間を孤独に流浪していた時期である。『神曲』においては、ベアトリーチェに対する神格化とすら言えるほどの崇敬な賛美と、自分を追放した黒党および腐敗したフィレンツェへの痛罵、そして理想の帝政理念、「三位一体」の神学までもが込められており、ダンテ自身の波乱に満ちた人生の過程と精神的成長をあらわしているとも言える。とくにダンテが幼少期に出会い、その後24歳にして夭逝したベアトリーチェを、『新生』につづいて『神曲』の中に更なる賛美をこめて永遠の淑女としてとどめたことから、ベアトリーチェの存在は文学史上に永遠に残ることになった。

『神曲』は地獄篇、煉獄篇と順次完成し、天国篇を書き始めたのは書簡から1316年頃と推定される。『神曲』が完成したのは死の直前1321年である。ダンテは1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せ、ようやく安住の地を得た。ダンテはラヴェンナに子供を呼び寄せて暮らすようになり、そこで生涯をかけた『神曲』の執筆にとりかかる。そして1321年に『神曲』の全篇を完成させたが、その直後、外交使節として派遣されたヴェネツィアへの長旅の途上で罹患したマラリアがもとで、1321年9月13日から14日にかけての夜中に亡くなった。客死したダンテの墓は今もラヴェンナにあり、サン・フランチェスコ教会の近くに小さな霊廟が造られている。フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。

その他
現在フィレンツェにあるダンテの生家は観光用に建てられたもので、実際の家はフィレンツェを追放された後に破壊されている。
ダンテの家系は現在に至るも存続し、ワイン業「セレーゴ・アリギエーリ」を営んでいる。(参考:新聞記事)

著作
『新生』 La Vita Nuova 1293年頃
ソネット25篇、カンツォーネ5篇、バッラータ1篇の合計31篇の詩(数え方には異同あり)から成る詩文集。ベアトリーチェの夭逝という悲報を聞いて惑乱したダンテが、生前のベアトリーチェを賛美した詩などをまとめたもの。
『神曲』 La Divina Commedia 1307年頃 - 1321年
ダンテを代表する叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部構成から成る。ダンテ自身が生身のまま彼岸の世界を遍歴していき、地獄・煉獄・天国の三界を巡るという内容である。
『饗宴』 Il Convivio 1304年 - 1307年
序章と14篇のカンツォーネおよび注釈から成る全15巻の大作として構想されたが、第4巻で中断した。ダンテの倫理観が込められた「知識の饗宴」は、当時の百科全書として編まれたとされる。
『俗語論』 De Vulgari Eloquentia 1304年 - 1307年
ダンテの母語イタリア語について考察したラテン語論文。言語問題を取り上げ、規範的な「文語」と流動的な「俗語」を区別した。イタリア語の方言の中から文語の高みにまで達しうるものを捜し求め、トスカナ地方の方言をその候補とする。
『帝政論』 De Monarchia 1310年 - 1313年?
全3巻。ダンテ自身の政治理念をあらわしたもので、皇帝の正義や宗教的権威の分離などについて説く。