小説神髄 坪内逍遥 | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

イメージ 1

イメージ 2

現代日本文学全集
小説神髄
畢竟、小説の旨とするところは専ら人情世態にあり。一大奇想の糸を繰りて巧みに人間の情を織做し、限りなく窮りなき隠妙不可思議なる原因よりして更にまた限りなき様々なる結果をしもいと美しく編みいだしつゝ、此人の世の因果の秘密を見るがごとくに描き出し、見えがたきものをみえしむるを基本分とはなすものなりかし。去れば小説の完全無欠のものに於いては、畫に畫きかたきものをも描写し、詩に盡しがたきものをも現はし、かつ演劇にて演じがたき隠微をも写しつべし。蓋し小説には詩歌の如く字数に定限あらざるのみか、韻語などといふ械もなく、はたまた演劇、絵画に反してただちに心に訴ふるを其の性質とするものゆゑ、作者が意匠を凝らしつべき範囲すこぶる廣しといふべし。是れ小説の美術中に其の位置を得る所以にして、竟には伝記、戯曲を凌駕し、文壇上の最大美術の其随一といはれつべき理由とならむも知るべからず。

坪内逍遥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、正字体:逍遙、安政6年5月22日(1859年)6月22日 -(1935年)2月28日)は明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳。本名は坪内雄蔵。別号に春のやおぼろ、春のや主人など。俳句も詠んだ。

概説
尾張藩の領地だった、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)の生まれ。父は尾張藩士。太田代官所の手代をつとめていたが、のちに一家で実家のある名古屋へ戻った。母の影響を受け、幼くして読本・草双紙などの江戸文学や俳諧、和歌に親しむ。

洋学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、東京大学予備門(のちの第一高等学校)を経て、東京大学(のちの東京帝国大学)文学部英文学科卒業、文学士。東京専門学校(のちの早稲田大学)に赴任し、のちに教授。

26歳で評論『小説神髄』を発表。江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著した。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された(『浮雲』第一編は営業上の理由で坪内雄蔵名義で刊行された)。

小説のほか戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。新歌舞伎『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方 』を書いた。また、1906年、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。

早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。

主な作品
評論
『小説神髄』1885年
小説
『当世書生気質』1885年
『細君』1889年
戯曲
『桐一葉』1894年
『牧の方』1896年
『役の行者』1916年
楽劇
『新曲浦島』1904年
翻訳
シェイクスピア全集の翻訳