何という覚悟、決意なんでしょう | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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 満ち足りることはわずかですむ―――ただ一つでも十分―――あの天上の群れに―――私たちは―――加わる権利を持たないのか―――

 私たちは試されているのだと思う。どれだけ欲深に成れるか、欲深になって何が満たされるか。貴女が生きたように、ただ一つでも十分なのに。いつの日か、死んで後か、知ることを期待されて、私たちは今日も生かされていると思えます。

聖堂の回廊などで 時折―――私はオルガンの話すのを聞いたことがあります―――ひと言だってわからなかったけれど―――しばらくは息を秘めていたもの―――

 何を話しているのかはわからないのだけど、話しているのがわかる時があります。木が私にとってはそうでした。その時の神秘は、人の言葉とは違って、魂に作用し、心を変化させました。―――遠い遠い、私自身の原始。私は木から生まれた、私は石から生まれたと確信させ、包まれ、共に生きていることの喜びに満たされました。

 肌色 階級 そして宗派は―――たんに時間の中の出来事―――死のもつ最も神聖な区分には―――このようなものはない―――

 私たちは、泣いたり、ぐちったり、争ったり、何百年も生き続けるかのように、様々なものを求め、所有し、貯えようとしています。それでいて、死を恐れ、死を知らず、不安がっています。貴女は死を、生きることのように見つめ、学んだ、そして、死はいつも神の隣に在って、神聖で、もう一つの世界への突入で、人が真に生き始める瞬間と知った。人は、死んで初めて生き始めるのだと―――。

 悲嘆の海を私は歩いて渡ことができる―――それをすっかりでも―――私はもう慣れているのだ―――だがちょっとした喜びも―――一押しで私の足をもつれさせるし―――私はすぐ酔って転んでしまう―――

 何という覚悟、決意なんでしょう。いくら慣れているからといって、ちょっとした喜びには弱いけれど、大きな苦痛には強いなんて。貴女は言葉通りに生きてしまった人だから。何が貴女をそこまで行かせたのでしょう、十字架と一緒に生きれるなんて。一回きりの人生を、それほどまでに逆らって生きれるなんて、時代だったのでしょうか、貴女の才能だったのでしょうか、私は貴女の悲嘆の海を、ちょっとした喜びの中で辿るばかりです。