絶対他者の認識 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

十月二十日

 絶対他者の認識、---私を今のこの瞬間に生かしている、私に先立つもの、或は神、自然、宇宙、生命の歴史というものへの信頼---けっして意識する私ではないところの、絶対他者への信頼の獲得、---信仰の過程に、飛躍、超越が要求されるのは、この意識出来ないものを認識しなければならないところにあると思う。---私ではない私への認識。---が、死を引きよせる時、飛躍、超越を要求されることなく、自明のこととして、信仰のような、先立つ私への信頼を感じる。---けっしてがむしゃらな生き方ではない。むしろたん能して生きる生き方、---味わう分だけ、蟻のようには働けない。死を引き付けている分だけ、死に耐えうる今日を持とうとする。---生命の飢餓感からくる今日ではない。---むしろ、死に裏うちされた、生命の充実感からくる、満たされた今日。---その今日がこれで終わる、---この今日がまた明日もあるというだけで、満たされた一日の終わり。---そうした今日がある限り、明日も必ず巡ってくるという希望。---ここには論理の飛躍はない。自然な私の感情。---まだ準備していなかったのに、癌という死の宣告をされたことが、切っ掛けではあったが、---その記憶がまだ色褪せないからかも知れないが、---私はあの日より、準備を始めたのだった。---準備を通してよく生きること、その時にあたって、待ってくれと嘆かぬよう。---あの時より、蘇った今というものを低落させないために。---癌のような経験がなくとも、在る満ち足りて在る今というものの証明を。---私はレーニンのようには、物質からの解放をめざさない。---私はイエスのようには、愛に生命を捧げない。---矛盾は止揚することなく、在るがままの、量から質への自然な転換をめざして、---核、地球汚染、飢餓、ファシズム、災害、etc、etc、---絶対他者への深まりを通して、沈黙への想像をとおして、--- 

                         
十月二十二日

 ニセアカシア、実を歩道に落としている
 ヒヨドリ、口端を大きく開いて叫んでいる
 猫、戯れて転がっている
 看板屋の犬、瞑想している
 キンモクセイ、夕暮れを漂っている

十月二十五日

 木、日影を嘆いてはいない。意識がないからではない。意識は、---陽を求めて、地を這うように幹を曲げている。存在を疑っていないのだ。存在に万感の信頼をおいている。そして、生きるとは、自分を存在たらしめている法則に従って生きることと、---日が照れば、気孔を開き、夜になれば、閉じる。---結果として、今日も生きものたちに有機物を与えているのだった。