女性と小説 ウルフ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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   女性と小説(朱牟田房子 訳)

  ウルフ(1882―1941)

 女性がものを書くことについて、どんなに表面的な調査でも、し始めるととたんにたくさんの疑問が出てくる。まず尋ねるが、なぜ十八世紀以前には女性は継続的にものを書かなかったのだろうか? そしてそれからはなぜ男性とほとんど同じくらい習慣的に書いたのだろう?その上、そうして書いているうちに、なぜ次から次へと英国小説の古典のいくつかを生んだのだろう? それになぜそのころ女性の芸術は小説という形式をとったのだろう?そして今でもなお、ある程度その形式をとっているのはなぜだろう?

 小説は、今でもそうだが、女性が書くには一番やさしいものであった。その理由を見つけるのもむずかしくはない。小説とは芸術の中でいちばん集中することの少ない形式である。小説は劇や詩よりもらくに取り上げ、また止めることができる。ジョージ・エリオットは仕事を中断して、父親の看病をした。シャーロット・ブロンテはペンを置いてジャガイモの芽をとった。共用の居間で人々にかこまれて暮らしていたので、女性は観察や性格の分析に心を使うように慣らされた。女性は小説家になるように訓練を受けたのであって、詩人になるようにではなかった。

 しかし、女性が書きたいと願うそのままに書けるまでには、直面しなければならない困難がたくさんあることは今でも真実である。まず第一に文章の形式そのものが女性には合っていないという技術上の困難がある――これは一見とても簡単なようだが、実際には非常に厄介なものである。文章は男性が作ったものである。女性が使うには散漫すぎ、重すぎ、大げさすぎる。しかし小説の中では、これは非常に広い範囲の分野にわたっているので、読者を楽に、自然に本の始めから終わりに進めてゆくためには、普通の、在来の型の文章を見つけなければならない。

 女性の小説は社会悪とその救済方法を取り扱うようになるだろう。女性の描く男や女は互いに感情的な関係だけで注目されることはなくなり、グループとして、階級として、民族として結合したり衝突したりするさまを注目されようになるであろう。それがかなり重要な一つの変化である。しかし虻よりも蝶――言いかえれば改革者よりも芸術家――を好む者たちにとっては、もっと興味ある別の変化もある。女性の生活に非個人性が一段と強くなると、詩人としての心を刺激する。しかも女性の小説が今だにいちばん弱いのは詩という点なのである。

-新潮四月臨時増刊 20世紀の世界文学より抜粋-