梶本松治郎への神様からのお言葉 | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

教祖(おやさま)の神意は『おふでさき』1711首に書き残されていて、日本語がわかれば、だれにでも等しく理解することはできる。

 その他、口伝や言い伝えもあり、教祖の言葉だとされるものが歴史的に残されている。ここに紹介するものもそうした貴重な教祖の言葉であり、以下、書き残したい。 ただ正確性を欠いていたり、聞き間違いもあるかもしれない。そういった限界も認識しつつ、ご紹介します。  

 

 これは『梶本宗太郎自叙傳』(橋本正治編、昭和32年)に記載がありました。

 

 宗太郎の祖父、惣治郎の筆跡で、教祖のお言葉の書き取りがある。

 梶本惣治郎の妻の「はる」さんは、教祖の三女に当る人で、惣治郎は教祖の義理の息子である。

 

https://takaoka56.com/itsuwa-006/

 

 

 この言葉の割書きは以下。

 

 「松治郎、教祖様(きょうそさま? おやさま?)に、奈良詣りに行きましょうと、誘いてお地場に来て、教祖様櫟本(いちのもと)へお越し下され、次の言葉あり」(明治17,18年頃)

 

 (なお表記は現代仮名遣い、漢字も必要の応じて入れた。)

 梶本松治郎とは、宗太郎の父である、松治郎の弟の新治郎(真之亮)は中山家の養子となり、いわゆる初代真柱様となる。以下の太字が教祖のお言葉とされる。 

 

 

 「松治郎奈良詣りというて来た。神の采配 行けと言うたで。詣ろうと思うて来るも図り事。 神の思惑ある故の事。

 

 

    日々の神の心受け取りて、すべて珍し助けするなり。

 

 

    この助け、これ何時頃と言うならば、小人成人次第なるぞや。この小人十三才になりたなら、親子もろ共引き寄せるなら、引き寄せてその先なるは段々と、いつも陽気で遊山遊びを、日日に遊山遊びのそのうちに、中で普請の模様ばかりを。

 

 

 この普請しんはしらともなるならば、いついつまでも年を寄らんで。何十になるいても(註ーなると言うても)案じなし。身の内弱りつくでないぞや。

 

 

 神のゆ(註ーゆう)事疑うな。 何を言うても、嘘はないぞや。

 

 

 家内中因縁つけてあるけれど、何を言わねば知らん事なり。

 

 

 因縁をつけたと言うて案じなよ。今から来いと言うでないぞや。めへめへに家業に心尽くするは、これが第一神の望みや。」 

 

 

 宗太郎さんはそのかどめについて、解説しているが、形の囚われた解釈が半分あるので、私なりにより、重要な理の角目をピックアップしたい。

 

1. 松治郎の誘いで神が呼ばれのではない、実は神の思惑があって、梶本家に来た。

 

2. 日々神が人間の心を受け取って守護を与えている。これは心通りの守護であり、人間の心を神様が受け取り、肉体をはじめ、あらゆる森羅万象を神様が支配している。これはもっとも大切な真理である。

 

3.梶本家は屋敷に引き寄せること。神様が見込んだ魂を引き寄せ、救済のための人材となることが期待されている。 この小人が実は、梶本宗太郎さんであることが本席様の時代になって判明する。  

 これは天の組織つくりの上で、神が直接望む人材が次第に、屋敷に引き寄せられることを意味する。 宗太郎の叔父は真之亮であり、初代真柱である。 

 宗太郎さんは20歳でお屋敷の青年となることになった。 

 

4.屋敷に建物が沢山立つことで、日々陽気遊山で何とも言えない結構な道となると宗太郎さんは語る。 実際に、地場屋敷多くの建物が建つ。神殿普請も実際に起きる。ただそうした形の盛大さに心が奪われて、金銭や豪華建築を作ること自体が目的化してしまう。

 心つくりが主題なのであるが、ここには屋敷の盛大さをつい望み、その通りになった時代背景もあるが、いささか形に囚われている面が濃厚だ。

 むしろ陽気遊山は形の守護よりも精神的な満ち足り感、たんのうの心、生かされている喜びの心が中心に来る。精神的な心作りにこそ主眼がある。   

 

5.普請が真柱となるという言明は、比喩的に、心の普請、心の成人をして、芯の柱、信仰信念の確立された心ができれば、年をとらない。不老不死ということが預言されている。

 人間は115才まで生きることが教祖の目的であった。  それなら60才に近い私も、あと50年は生きれるということである。しんのはしらを心に確立して、長生きしたいものである。

 

6.神様の云うことに嘘はない。  神様はあーしなさい、こーしなさいということは決して言わない。自分で考えて、主体的に行動してほしい。その心にのって神様ははたらかれる。目には見えなくとも、人間が生きていることの中に神様からの守護があり、エネルギーをもらっているのである。 

 

7.梶本家に因縁をつける。これは、神様が来て欲しい家柄があるということ。それをほのめかすが、すぐに来いとは言わない。 人間には人間の都合があり、神に素直な人間はいない。そこで神は強制はしない。しかし、次第にそのように引き寄せの方向に守護されてくるのである。

 

8.家業の大切さ。これは職業を通じての勤労倫理の大切さが語られる。給付金で詐欺するよりも地道に働いて、己の家業を第一にすることが美徳となる。 働くとは「はたはたを楽にさせること」とは教祖の口伝でも有名である。  教祖も若い頃は農家の主婦として大変良くはたらいたことが、伝わっている。 勤労精神の美徳は日本人一般に広がった心ともいえる。

 二宮尊徳さんがもっとも有名であるが。  ウクライナの難民の女性たちも働くことを望んでいる。 働くことは生きることである。