今日はハイカラ婆ちゃんのお供で中学生の私が、新潟から婆ちゃんの実家の有る


滋賀県八日市まで行った時の話しです。


2~3年に一遍は実家に帰りたがる婆ちゃんのお供を仰せつかり、

ブルートレイン「北国」号の寝台列車で新潟を夜の9時過ぎに経ち、早朝に米原へ

そこからあの「西武鉄道」の前身となった「近江鉄道」に乗り換えて一路「八日市」へ。


婆ちゃんの実家は前にも書いた通り元々は「近江商人」の呉服屋で現在は「洋服屋」

を滋賀県内で何軒か経営している老舗の旧家です。


子供の頃から何度とは無く連れて行かれ、泊まる物の、そこは昔ながらの古い

「商家」で、中央の庭には大きな「蔵」が在り、それを囲むように「この字型」に外廊下が、その一番先にトイレが在ると言う子供にとっては「夜のトイレに行くのが怖い」

造りになっていました。


ましてや一応「賓客」扱いの婆ちゃんは泊めて貰うのは「仏間」上からは「御先祖様」

の写真がじっと私を見つめているのです(。>0<。)


「お婆ちゃんっ怖いよ~」と言う私に、「何も怖い事あらへんがな~皆あんたの親戚やで~。例え出て来ても今晩は~言うたらいいんや」と何時もの「御言葉」(;^_^A


そんな婆ちゃんの実家には当時婆ちゃんの「姪」にあたる「お多喜さん」と言う女当主

が居ました。彼女もうちの婆ちゃんの上を行く「近江の三女傑」のうちの一人として

数えられるほどの人で、晩年は裁判所の「調停員」をしたり、恵まれない人達に慈善を施すなどの活動をしていたスーパー婆ちゃんでした。


しかし、我が家の婆ちゃんからしてみれば、年下の「姪」に過ぎず。何時も遊びに行っては喧嘩して「もう二度と実家へは帰らへんわ~」と激怒しては又翌年にはニコニコして遊びに行くと言う繰り返しでした。


その日は私が近所の商店街へ一人で出かけ、婆ちゃんとお多喜さんにいわゆる

「肉まん」を買って帰ったことから始まりました。


孫同然の私が少ないお小遣いからお土産を買ったことが嬉しい二人は、喜んで食べ始めたは良いのですが、そこでの一言が大きな争いに。


「これは豚饅やな~」と嬉しそうに私に笑顔を向けるお多喜さん。すると此処で婆ちゃんがすかさず、「いいやっこれは肉まんと言うもんや」とやり返しました。


「何言ってんの叔母さんっ。これは昔から豚饅やないの~」「いいや肉まん~」

「豚饅~やな~○○ちゃん」と私に同意を求める「お多喜さん」

「肉まんやな~○○ちゃん」今度は婆ちゃんの攻撃。


間に入った私は冷静に「関西では豚饅で関東では肉まんと言うの~どっちも一緒やがな~もう~」と言うと。


始めてその事実を知った八十代の叔母と姪は、「なあ~んやそうかいな~しょうもなっ」

「え~~いっ二人の会話の方がしょうもないわ~」


こうしてまたしても二人のレクリエ-ションに付き合わされた中学生の春でした。


そんな「お多喜さん」の方が婆ちゃんよりも先に亡くなり、それを聞いた婆ちゃんは

「私より若いくせに先に亡くなりよってからに~根性が足らん」

そう言った婆ちゃんの眼には光るものが在ったのを見つけた私でした。


きっと今も二人共天国で又「しょうもない喧嘩をしている」事でしょう

「大概にしなはれや~二人ともっ」(=⌒▽⌒=)