山口県周南市の金峰地区で起きた殺人事件がメディアを賑わせている。

加害者が悪い、被害者も悪い。さまざまな推論が飛び交う。

僕は犯人がまだ逮捕されていなかった時にニュースを見て、普段からこの人は追い詰められていたんだと思った。そして捕まえられたいのではないかとも思った。

逃走するなら車を使えばいいのに山道を歩いている。家の前にいくつも並ぶ奇妙な置物。「つけびして~」の貼り紙は自己主張そのもので、振り向いてほしかったのではないか。

自宅から約1キロメートル離れた山のなかで逮捕された保見容疑者は捜査員に見つかり「観念した様子でその場に座り込んだ」という。

神経質性格であった彼は仕事においても手を抜かなかったのだろう。川崎はホームレスの多い日雇い労働地域だ。タイル職人として働き、40歳になり地元金峰に両親の介護に戻ってきた。

周りからは「熱心に介護する人」「研究熱心」「挨拶もできていた」と観察されていたが、両親が死亡してから“性格が豹変”したという。

両親の死を機に変わる。人を遠ざけ、近づけば脅す。彼は両親に自分の存在価値を見いだしていたのではないか。死んで世話をする相手がいなくなったとき「自分には何もない」と現実を見てしまったのではなかろうか。

メディアは村八分とも言われているが、僕は村八分は第三者の意見であり、本人や住民はそんなことを口にしていない。

彼は両親に依存していたのだと思う。両親も彼に依存していたのだろう。ゆえに村の人間は彼にとって両親がいなくなった寂しさや虚しさを埋めるために必死に村の人間関係に飛び込もうとしたが、農村地域独特のコミュニケーションは彼にとり、見捨てられ不安を植え付けられるものであったに違いない。

彼は外に出なくなる。寂しいから家の回りを奇妙な置物で満たす。置物でさえ友達であったのだ。親子の分離不安は妄想に形を変え、近隣への暴言に変わった。近隣住民は保見容疑者にとって親代わりとして存在してほしかった。その親代わりから突っつかれたり遠回しに批判された。
どちらも悪くはない。あったのは負の関係性だ。しかし殺人は何があってもしてはならない。

これを単純に「近隣住民への恨みが犯行に及ばせた」と表面だけ片付けられれば、僕はこんなに悔しいことはない。原因はもっと深くにある。

Android携帯からの投稿