入院しておよそ20日になる。

きょう明日と外泊許可を得られ、久しぶりに娑婆の空気を吸っている。


入院以来日記をつけているが、言動を文章にすると“思い込み”との差に気づくようになった。これまで日記をつけることをしなかった。認知療法という言葉だけは知っている。自身の認知のゆがみを正常に持っていく。ただこの正常というのが厄介で、自身の正常とはどんな状態であるのか(どうありたいか)を把握できていないとさらに混乱を招くおそれがある。


たとえば生じた不安の大きさを数値とかグラフにするとか、“不安の見える化”を行うことで再び脳にフィードバックするやり方は不安障害、うつ病では有効らしいが、それをすることにより「これは±0にしなければならないのだ」と完全主義的治療をすれば元の木阿弥だ。病的な強迫行為を重ねることでさらに苦しくなる。


入院している患者さんと話をすることがある。病状が一向に改善しない人や、「家族に入院させられた」と憤っている人もいる。そこに共通するのは“子ども目線で自分を見ている”ということだ。インナーチャイルドを癒すことが重度アダルトチルドレンの回復の一歩といわれるが、それがなかなか思うように進まないというのは、まだまだ子どもの精神状態から抜けていないからのような気がするのだ。


大人の心の中にずっと居座っている傷ついた子ども。それを大人目線で見ることができず、幼い考え方と視線で癒そうとしても無理がある。まず大人の自分がここにいるという確信をもって、癒す作業を進めていく必要があるんだろうと考える。


自分は医療者ではないしACに精通しているわけでもない。むしろACという概念は約1か月前に知り、自分なりに解釈したものだ。それでも他の患者さんの中に見え隠れする子どもっぽさは、間違いなく治療を頓挫させているものとして感じられる。