23,24日と帰省をした。しかもテレビ局密着だった。23日は佐世保駅降りるときから、テレビカメラが回りはじめ、じん肺の会に移動するバスの中、じん肺の会から最後のレセプション終了まで、一挙一動カメラは回り続けた。胸にはマイクロカメラをつけられたので、何気ない会話も聞かれてしまい、トイレ行く時も申告して外して貰わなくてはいけない有様だった。じん肺の会は久しぶりに多くの人に会えた。弁護士団の事務局長だった先生は、少し痩せて年をとられ、以前の風貌はなくなっていたが、心だけは今でも熱気盛んで、二次会では酔いも手伝い、私に修論のことについて、色々ご自分の意見を話された。私が母を取り上げる事を喜んでくれてるようだった。この点はじん肺の会の支援者や、弁護士さんたちは大変に喜ばれていた。期待されるのはプレッシャーにもなるが、一段と意欲がわいた。24日は10時から取材開始。佐世保を出発して、私が生まれた場所に行った。小4まで住んでいたのだが記憶があまりない。だから従弟や弟に来てもらった。場所は削ったり、埋め立てたりで地形そのものが変わっていた。当たり前だが小さい頃から夏になると泳いで遊びに行った、島だけは変わっていなかった。放送局の人が「あそこまで泳いで行ってたんですか?」「そうよ。皆で泳いで行ってたよ。途中でしんどくなったら背泳ぎの体勢で浮いて休んで、そしてあそこまで行ってたんよ」「1キロか2キロありますよ!すごい」と言いながら感心していた。昔はそうして季節の変化を利用して遊んでいたのだ。懐かしい。その後実家、炭鉱資料館、両親のお墓へと時間と競争しながら取材が続いた。お昼ごはんを食べる暇がない。私はいいが、皆に申し訳ないと思う。3時過ぎにすべての予定が終了した。弟、従弟と別れ、テレビ局が用意していたタクシーに、スタッフと乗り、佐世保バーガーのお店に行き食した。お店は流行っているようでひっきりなしにお客が来ていた。店内はテーブル席が3席ほどで収容人員はわずか。タイミングが良かったのか、直ぐに座れた。お腹がすいたのも手伝い大変に美味しかった。スタッフとニッコリ。お店に前で記念写真。その後佐世保駅に直行。残された時間は30分。テレビ局スタッフ、私は各自お土産買いに散らばる。私は駅となりのスーパーへ。スボやチャンポンのもとを買い、妹に宅急便で送る。定員に時間がない事を告げ大急ぎでしていただく。申し訳ない。無事に出発に間に合い「みどり号」で博多まで行く。4人とも爆睡。博多駅から新幹線に乗り継ぐ時間は7分しかない。音声さん、カメラマンは機材で大荷物を背負ったり、手にぶら下げて走る。音声さんは25歳の女性。体力に感心。ディレクターは自分のカートと私のカートを担ぎ走る。私はその後を小走りにハァハァいいながら離されながら必死で着いていった。間に合った!セーフー!。その後京都までは起きているような寝ていくような状態だった。10時過ぎに家に着いた。ホッとした。これから暫らくは取材が時々入ることになるが、とりあえず第一弾は終了。「バンザーイ」!