~少し長いですが。~その1~

2018年5月茶話会の再開にあたりテーマとして「晴山神社検定合格記念」と銘打ってはじめた。

日本列島の形成、日本人とは?、神社の変遷などの解説からはじまる。

そもそも、神社の役割とはなんだろうか?、神様ってホントに居るの?という疑問にぶつかる。
伝承においては神社は神様と人が交流する場所をさす。
発展の課程からすると最初は大きな神宿る岩や山自体を御神体として崇めていた、
神奈備信仰である。
それ以外に北極星や太陽、海などの自然に畏敬を持ち信仰対象にしてきた。

縄文から連なる日本人の信仰文化はさまざまな型を形成してきた。
人ならざる自然の猛威にひたすら耐え、その後に恵まれた太陽のぬくもり、特に山からその恵み
~水、山菜栗動植物の食べ物、薬草、鉱物、温泉に至るまで自然から恵みに対し感謝する日々、
すなわちそれを産み出した神なる存在への感謝である。
時には自然の猛威に人柱を捧げたこともあったが日本では廃れた。
日本の神様の性質に合わないのだ。

日本人の特性は素朴で素直に神一厘と、かの出口聖師は云う。
日本人はその土地の神様の性質に似ていて、それを産土力という。
日本の神々は喜怒哀楽の中で特に笑い声を連想する、明るい性質が特徴だ。

しかし足るを知らない欲張り者を凝らしめる寓話は多い。
素朴さ、謙虚さがむしろ延びしろになるのが日本の風土だ。
逆に自信満々をすぎた傲慢さは嫌われる傾向にある
女系である日本に強いリーダーはいらなかったようだ。
縄文の頃は大きな争いの跡もないが、弥生になり土地争いが起こる
縄文人は意図的に土地争いはしない方策を取るが渡来人によりその和が乱れ、
ある課程から強大な北九州(熊襲、伊都など)に対抗する形で緩やかな連合国を
奈良の巻向に作ることになる。
それが大和政権の基礎となるが渡来系が力を持ち、記紀には東日本の勢力が消される。

それでも傲慢は卑下慢よりはましである。気力があるから
卑下自慢は自分が絶対良いことをしてる、正しいと思い込んでる分厄介
で回心の余地がないのである。

ちょっと話がずれたので戻そう。

神社は元々、御神体の前で瞑想したり、原っぱで円陣を組んで神にひたすらお祈り捧げた
ものと想像される。
最初はシャーマンだけの仕事だったろうが、人々が神様との交流をのぞみ、人が集まってくると
雨露のしのげる建物が作られて神様とお会い出来る場が成立する。
最初は移動式テントだったようだ。
それがいつの間にか権力の象徴になる社が伽藍となる、
時代が進むと政略などで非業の死を遂げた貴人の御霊鎮めとして神社の神様として祀られ、
近年はそれが主流のようだ。菅原道真公が代表格であり、怨霊鎮めとして語られる。

神々の裏面は魔に通じる。鬼をカミと読ませる熊野神社系は鬼神伝承の地である。
鬼という存在は諸説ある、漂流した白人系バイキングをその正体としたりする、
丑寅金神は牛の角と寅柄の衣装を纏った祟り神でドリフターズの雷さまの格好であり、
本来の神の姿とも言われる。

カミと読ませる神は陽とん=花に例えるなら咲かせる働きである
鬼にと読ませるカミは花を枯らせ実をつける働きを云う、陰とんである。
どちらも神の面なのだが、人は春夏の過ごしやすい日々を願うもの。
神は生死を司るが、死は生きてる人には有り難くない話であるから嫌われるのは当たり前である。
人生を四季で例えるなら今の貴方はどの季節を過ごしているだろうか?
冬場でじっと耐えなきゃいけない時に人はえてして新しい事に手をつけ上手くいかず、
占い師、祈祷師を探し奇跡を求めて浪費する。
先生達は処方箋を伝授してはすだが人は自分に都合の良い話しか聞かないものだ。
神は自然の摂理であり生き方の法理である。打たれる時は打たれるべしということ。

そんな人智を超えた法理の存在にどうアクセスすべきか?は我々の先祖が示してくれている。
「まつり」である。まつりは祀り、奉り、祭りの要素は別々だ。
神事を奉り祀りと言い、神事後の神賑わいを祭りという。二個一なのだが神賑わいのほうが金に
なるから困ったものだ。
神社に行くと必ずこんなカップルがいる「神社の賽銭ていくら?5円でいいんじゃねん?、ご縁だから(笑)」
閉口する。
いま時、5円じゃ缶珈琲1本も買えやしない。
そんなケチに神様が言うことを聞かなきゃいけないの?、それで山盛りおねがいだけはする、
いくら綺麗に化粧しててもおぞましい〇霊に見えるのは私だけ?(笑)。
神様をホントに信じていたら出来ない行為である。
また、●●の集団を真似るように神居す鎮守の森で大声を上げ、ごみを捨てる。
神道は清潔主義であり、言上げせぬ国柄、つまりいちいち言わない。言わないとわからないだから怖い。
禍と言う恐怖を知らない。
自分の心をちゃんと監視しなきゃいけない。だから六根清浄という祝詞がある。

祝詞とはノリの良い音を響かせ、身心を清純化し(禊=手柄杓)神に向かう。
神様に向かい礼節をもって心身と言の葉を美しくして向かう三位一体の感性が
神様との対話の入口となるわけだ。
そして人生の真諦を学び、志を神に示し決断をする場が実は神社の
大切な役割である。

今で夜にお百度参りをしてる方に出会うことがある。実に真剣なご祈願だ。
うちのお客様で娘さんが交通事故に遭い意識不明になった。お母様がお百度踏んで
満願日に意識を戻された奇跡を目撃する。

古来より聖人君子は天を乞い願い天人一如、神人合一の妙諦を得ようと努力と精進を尽くして来た。
ひとつの信心、哲学に命と生涯をかけ挑み、やっとたどり着か?着かないか?の境地である。
確かにいろんな血、遺伝子が重なり生まれながらの天才ハイブリッドの存在は容易に
高次元の彼らとコンタクトする。
しかし、凡人がその遺伝子を発現させるには命掛けの覚悟が必要となる
また、高次元情報の前に低次元もしくは高次元に模した情報を放つ者の存在も知るべきである。
もっとも人間界に有益という観点で見た判断でしかないが…。
霊能力の開発の途上で必ず起こる霊障問題、最初は柔い光や霊型で
見え、心酔すると少しレベルの高い狐狸の輩が神様を模して霊言を語る
此に大概やられてしまい、中途半端の霊力で人生を失う、そんな霊能力者占い師、祈祷師をいっぱい見て来た。
かくゆう私も「見たい!」想いから気功の先生に伝授されたオーラを見る
練習に勤しんでいたら少し見えるようになるから凡人でもガッカリする事はない!。
その頃、天然の見える娘たちと旅行に行き、その娘が拾った蛇霊が苦しくて
それを「貴方気功法が
出来るから取れるはずだから取って!」と、はて困った経験も自信もない
しかし、目の前で苦しがっている。やらねば!
不思議な事に尻尾が掴めた感覚となり抜いたら、2秒ほど輪郭が見えたが虚空に消えていった、
素粒子の対消滅なのだろうか?
次にはっきり見えたのは看護婦さんの治療中に尻尾がフサッと一瞬見えた
「あっ!」と思い思わず引っこ抜いたら小さな狐の霊体だった。
お客様はスッキリして帰ったが今度は私が逆襲された背骨に入っていくのが分かり、急に具合が
悪くなって熱は出るわ吐き気はするは!大変、当時通いだったが家に帰れない。
やっと帰って熱湯に入り塩で清めた。祟り禍である。
数日後に弥彦神社に懺悔しに行った、鳥居を過ぎらふっと体が軽くなり元気を取り戻す。
あまり見ることに拘ると本物の師匠が近くに居ないと危険なのを身をもって学ばせてもらった。
弥彦の神さまは命の恩人である。だから本物の霊能力修行の凄さもわかる。
私も修行者の一人だが中途半端だからそこに注意がいく。
判断力、眼力の大切さ。欲望の上手な使い方が必要だ。
先哲の学問、歴史、経験、礼儀作法も大切な審神力となる。
そんな眼力があって初めて神なる存在と対等となり、言われるだけでなく、交渉の出来る、
本当の神人となれる。

そんな方々を御師と呼び、かつて熊野神社や伊勢神宮の神前に多くの方を誘った歴史がある。

では、どうしたら神との対話が成立するのだろうか?
ハイブリッドなヒューエリアンはその役目があるから早くからその能力が発現する。
では我々凡人はダメなのだろうか?
確かに最上級の神々の交流は難しいがせめて一言、せめて守護神や土地神と交流したい!
だから修験道のような厳しいこともする。
何故か?厳しいことをすることで体力気力の限界を迎え、それをも越え、情熱や気力が萎え
我が縮小した時にふと扉が開く、ほんの一瞬のシンクロ。
私も弥彦山を祈りながら黙々と登山したある日のこと「義をもって〇〇すべし」と頭の中で
聴いたことのない荘厳な声が響いた。狐の祟り以降の体験である。
それが絶対ではないが、常識的に内容を検討し、八方よしなら中(あたり)とする。

 

~まだ、続きを書きましたが、ましたが、今日はこの辺で。 では、また~