会津の鶴ヶ城、
官軍が攻め込んで来るなか、
城には入らず、
西郷頼母の実家にとどまる、
西郷家の女性達、
既に覚悟が出来ていたのか?
21名の白装束の女性達、
西郷頼母の奥さん、娘さん達、お孫さんまで、
全員が自害する。
ここまでの経緯が、
あらゆる資料に書かれ、
会津の西郷家の前の説明書きにも、
その旨が書かれている。
なんという悲劇。
悲劇という言葉が軽く感じる。
中には20歳前後の娘さんもいる。
辞世の句も残っているが、
本心は無念だったに違いない。
恋もしたかっただろう、
勉強や旅行もしたかっただろう、
たくさん楽しい事も経験できたろうし、
そのまま明治維新を迎えれば、
山本八重のような活躍を、
したかも知れない。
この余りにも悲劇的なでき事の裏で、彼女達の生の声や史実が残ってないか、大変興味がある。
それにしても腑に落ちないのは、
自分の家族、自分の婦女子が自殺しているにも拘わらず、
なぜ西郷頼母は生きながらえたのか?
確か70過ぎまで、
神社の宮司をしながら生きている。
自分が家老として、
会津藩の最高責任者であり、
結果として婦女子を死に追いやりながら、
自分は息子と城から逃げ出して、
生き延びている。
これが武士なのか?
今も残る西郷頼母の写真から、
そんな立派な武士であったとは思えない。
歴代筆頭家老を勤める家柄であり、
坊っちゃん育ちの、
ぼーっとした性格だったのではないか、
余り責任感があるとは思えない。
だから恥ずかしげもなく生きながらえている。
後妻も貰っている。
あれだけの覚悟をもって自害した妻がいれば、後妻なんてとんでもない話。
鶴ヶ城を挟んで起きた事実から、
色々と考えてしまう。
不憫とは、
こんな事ではないかと強く思う。