読書をする方法に特にルールがある訳ではないが、自分の好きなものだけ読んでいると、読み易いものだけに偏ってきてしまう。

 

 そんな時のガイドの役割をするのが書評であり、大抵の新聞には週に1回程度書評欄が設けられている。

 しかし、新聞の場合には大体が今話題になっているものとか、ベストセラーが中心になってしまう。なのである程度の期間に亘って書評を読もうとすれば、書評集を読むのが一番手頃になる。

 書評集は作家や書評家等が雑誌などに掲載していたものや、書籍の最後に「解説」として掲載したものを集めて発行されることが多いので、何を読むか検討するのに、信頼性も高いと言える。

 

 今も酒井順子の月に3冊、読んでみる?を読んでいる途中であるが、フト15年くらい前に読んだ、米原万里の打ちのめされるようなすごい本』のことを思い出して、久しぶりに書棚から引っ張り出して見てみるとやはり、凄い。

 

 同書の前半『私の読書日記』は週刊文春に2001年~2006年掲載されていたものであり、毎回3~4冊位の本を紹介しつつ、そこへ作者が色んな事例を交えながら切り込んでいく形式になっている。更に途中からは自らの癌との闘病記ともなっている。その最後が2006年5月18日付のもので、その翌週5月25日に米原は闘病の末亡くなっているので絶筆とも言える。

 

 米原万里は元々ロシア語の同時通訳者として著名であり、第1級通訳者として活躍していたが、40歳を過ぎてからは、作家活動に専念し始める。その著書を読むと通訳するためにどれだけ広く、膨大な知識を持っていたかが分かる。

 

 『打ちのめされるようなすごい本』の末尾には井上ひさしが「思索の火花を散らして」と題して解説を書いているので少し引用してみる。

 

・・・・・いったい書評の良し悪しはどこで見分ければいいのだろうか。その秘密をこの本のいたるところで彼女が明らかにしている。・・・・・・・・

評者と書物とが華々しく斬り結び、劇(はげ)しくぶつかって、それまで存在しなかった新しい知見が生まれるとき、それは良い書評になる。

・・・・・・すぐれた書評家というものは、いま読み進めている書物と自分の思想や知識をたえず混ぜ合わせ爆発させて、その末にこれまでになかった知恵を産み出す勤勉な創作家なのだ。著者と評者とが衝突して放つ思索の火花―わたしたち読者はこの本によってその火花に美しさに酔う楽しみを恵まれた。(以下略)

 

このように井上ひさしは、 『打ちのめされるようなすごい本』を単なる書評集としてだけでなく、ひとつの創作であると絶賛している。

 

 同書の中ではまさに、書物を材料にして、現代社会の課題・問題に対する評論が展開されている。その範疇は、政治、文化、宗教、メディア、医療と広範囲に及び、その舌鋒は鋭く、時には取り上げた書物に対しても容赦なく疑問を投げかけている。

 しかも最後の方は病床にありながら、命を削ってまで書き続けたことには、心が揺さぶられる。

 

 井上ひさしも言うように、単なる書物の紹介だけでは良い書評とは言えない。その書物が生まれた背景、その時の社会情勢をよく把握して、新たな視点や疑問点を読者に与えてくれるような、そのような書評集こそ読書をするのに値する。

 

 最近のもので言えば、例えば斎藤美奈子(※)の忖度しません』(筑摩書房、2020年)がそういう書評集であり、そういう本に出合うとラッキーだったと思ったりもする。

※修正前に斎藤美和子となっていたが斎藤美奈子の誤りなので修正のうえ改めて掲載しました。