作るだけ作って長らく放置していたブログの第一号が、
こんな重い内容でいいのだろうか。
なぜ推し活をするのか、と人に問われた。
推しが好きだから、推しがかっこいいからかわいいから、
推しの歌がダンスが芝居が好きだから、そういうことはもちろん前提として、
ひとまず横に置いておく。
(数いる推しの中でミッチーに関しては"推し"や"推し活"という括り方をしていないけれど、
それもひとまず置いておく。)
わたしが推し活をする理由。
そのうちのひとつは、
「誰かのファン」である自分にしか存在価値を見出せないから。
20数年生きてきて、わたしは今のところ何者にもなれていない。
この先なれる気もしていない。
わたしには"自己肯定感"というものが恐ろしく欠如している。
自分の存在価値や自分が生きている意味を全く見出せないのである。
こうなった原因は大方分かっているけれど、今語ることではないので割愛。
唯一自分に価値を見出せる方法は、人から必要とされること、もしくは人に褒められたり感謝されたりすること。
自分では自己を肯定できない=他者からの肯定が何よりの価値になる。
その為、知っている人もいると思うけれどわたしは承認欲求が強め。
「推し活」はそれを叶えてくれた。
推しのライブや公演に行けば、自分は大勢の中の1人でしかないが、
少なくともその瞬間は推しから必要とされているし、推しに自分の存在を認めてもらえている。
(推しからの認知という意味ではなく、ファンとしてその空間にいることを許されている、という意味で)
わたしは今まで生きてきて、家でも学校でも会社でも、
理由がないとその場にいることができない。自分がそこにいてもいい理由が欲しい。必要とされない自分に価値はない。
推しを応援しているときは、「推しのファン」という価値が自分に与えられる。
これが、自分が存在してもいい理由になる。
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大前提として、そもそもは推しが好きだから推しているのであって、
自分の存在価値の確認のために利用している、というわけではない。
存在価値等は、好きな推しを推すことでついてくる特典のような扱い。
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何者にもなれないわたしは、「推しのファン」であることで「わたし」という像を作り出している。
推しがいなくても存在はしているけれど、その時点では極めてぼんやりとした存在でしかない。推しがいて初めて「自分」という枠ができあがる。
推しが太陽とするならその光を借りて光っている月がわたし。
自分では光ることができない。
多分、自分から光ろうともしていない。推したちに人生を委ねすぎている自覚がある。
自己肯定感がかけらもないわたしは、自分が生きている意味や必要性がないため、
生への執着がない。これを覆すのが「推し」という存在。
推しはわたしが生きている意味を与えてくれるから、イコール生に執着が生まれる。
いつ死んでもいいと思っていたわたしがまだ死なずに生きているのは推しのおかげ。
今でも希死念慮は強い方で、死にたいな、死のうかな、死んでもいいや、と思うことはあるけれど、推しという存在が瞬時にそれを打ち消してくれる。
推しがまだこの世界にいるのに死ぬわけにはいかない、今死んだらこの先の推しの供給を受けることができない、その一心で生きている。
まさに推しは「生きる意味」。
"確かに側から見たなら私は正気の沙汰ではない
だけど人生を賭けるだけの価値があるから仕方がない
心配ご無用 至って正常"
(鈴木愛理「最強の推し!」作詞作曲:大石昌良/2023年)
推しがいる人なら少なからず刺さるであろうこの歌は、
わたしの生き方を肯定してくれているように感じてよく聴いている。
自分の人生を他人に預けているような生き方はもったいないとか自分に無責任だとか言われるかもしれないけれど(実際言われたこともあるけど)、推しに人生を委ねた上でそこから広がった世界がたくさんある。今いる業界へ足を踏み入れたのも、これまでの推しや推し活の影響が大きかったりするし、推しがいた上で人生の選択は自分でしているので、他人にどう言われても特に気にしていない。
今後もわたしは、推しありきの生き方をする。
なぜ推し活をするのか。
何者でもないわたしを、「貴方のファン」であるわたしにさせてくれるから。
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色々と補足。
●一連の内容はかなり内面的な話なので、
常にこのことを考えてライブに参加したりしているわけではない。
次にわたしと会っても深刻な雰囲気とかになる必要は一切ないですまじで。
●「なぜ推し活をするのか」ではなく「なぜこの推しが好きなのか」の質問だった場合は、
きっと、質問者が後悔するくらいの時間を費やしても語り尽くせない長丁場になっていただろうから
質問者は身の安全を喜んでほしい(これを読むことはないと思うけど)
●「承認欲求が強い」ことはあまり良くないことに捉えられることが多いけれど、わたしの場合は承認欲求は大抵制作意欲や行動意欲に繋がっているのであまりマイナス視していない。
●自分では"推し"とカテゴライズしていなくても便宜上そう呼んでたり、"推し"だから"推し活"をするわけでもなかったりする。(実際、推し俳優の舞台は滅多に観に行かないけれど、推していなくても出演を知ったら観に行く俳優もいたりする)