私はただ純粋に、
素朴に、愛していたい。
「好き」だけでは
どうしようもないことも
どうもこうもないことも、
わかっているつもりだ。
わかっているつもりだったのに。
どうせみんな勝手に愛して
信じて 裏切って 裏切られる。
一人で勝手に信じたくせに
少し違うことをしたら
「昔の方がよかった」
「らしくないね」
なんて言われて去られる。
信じられていた側の言葉は
どこに向かうんだろう。
勝手に好きになったくせに、
被害者のふりをしないでくれ。
「好きだった」を盾にしないでくれ。
私は、ただ好きなものを
ただ好きでいたかった。
好きで集まった人々が
透明に形成した決まり文句に、
どこかの誰かが勝手に名前をつけて
絵具でわかりやすく印をつけていく。
透明なままにしていれば
永遠にあやふやで、
片想いのドキドキみたいな
好きでいられるのに。
勝手なことばかりする大人が
透明だった空を濁して
大気汚染を起こしていく。
居心地が悪くて、
大好きな空を見ていられなくて、
悲しくて 悲しくて むなしくて
私は逃げ出した。
縋りつくようにペンタブレットで
絵を描いた。
好きを好きでいられるように。
こんなこと、あっていいはずがない。
「好き」だけを信じて動く私は
「好き」で息をしているも同然で
好きなものがなくなったとき、
私は生きるのをやめてしまうだろう。
わたしはまだ、ちゃんと愛したい。
剥き出しの嫌な部分も知ったうえで
ちゃんと咀嚼したうえで好きでいたい。
そうさせてくれない世界で
たぶん、私は生きていられない。
みんなが好きなことだけしていたら
世界は滅亡してしまうけど、
人生の半分以上
好きじゃないことをして
生きている私たちが
好きなものを好きでいる権利は
否定されてはいけないし、
邪魔されるべきではないと思う。
私は、好きなものを攻撃したくない。
ガードレールになって
正しい道を舗装して
好きなものが行く先を
出来るだけ一緒に眺めていたい。
ヒッセンの中で泳ぐ君を、
せめてバケツに、水槽に、浴槽に、
川に、海に移せたら――――。
そうしたら多少の絵具にも
透明のままでいられるのに。
私が水槽だと思っていたものは、
醤油差しだったようだ。
…やるせない。
前回のブログを書いてから、
結構な月日が経ってしまった。
ミスiD2018には落ちてしまったが
友達が増えたので良しとしよう。
悔しいけれど。悔しいけれど…。
「夢なんて叶わない」
高校生になってから、進路について
考える機会が多くなった。
周りの友達も会うたび
「進路どうするの?」
とか聞いてくる。
夢に向かって毎日勉強して
低浮上になった友達で溢れたSNSの
タイムラインはなんとも寂しかった。
『夢』
ざっくりしたこの漢字一文字に、
いったい何人の子供だった者達が
頭を悩ませられたのだろう。
私は昔から夢のない子供だった。
周りの女の子が七夕の短冊に
「プリキュアになりたい」と書く中、
プリキュアが好きだったものの
「プリキュアになったらどんな時でも
人を助けなきゃいけないから大変」と
ひとり「いぬ」とか「かめ」とか
動物になりたがっていた。
小学校に入ってから中学卒業までは
「夢は持っていたほうがいい」と言う
大人たちの言いなりになって
その場凌ぎの「夢っぽいもの」を
用意していた。
私には周りのキラキラした夢や、
夢を持たずにいられる勇気が
なんだか羨ましかった。
そうしていつの間にか
口うるさく 大人達が
『大学』『専門学校』『就職』
とかいう言葉で
頭蓋骨を殴ってくるようになった。
「夢を叶えたことないくせに」
と捻くれ、『夢っぽいもの』すら
なくなってしまった私は、ふらふらと
自堕落な高校生になってしまった。
だけれど、人生なんて
思ったより簡単に変わるものだ。
こんなわたしでも 今は、
夢を見せてくれる女の子に出会い
初めて明確な夢ができた。
「未来なんて たった今の積み重ね
だから今が 大事」
(The Vision/モーニング娘。’16)
これは私が好きな歌詞だ。
時間なんて 生命なんて
勝手につながっていく。
生きること自体は無意識の連鎖で
頭を使わなくてもできる。
将来なんて私達が考えているより
簡単で呆気ない。
それを楽しいものにするのも
つまらないものにするのも
今の自分が何をして、
どのように繋げていくかだ。
そこに夢を叶えたことがないくせに
うるさい大人達が「心配だから」と
「高校は○○に」「大学に行け」
なんて脅かすから、
私達は一歩に足が竦む。
だけれど、
周りの幸せそうなパリピも
近所のおじいちゃんも
芸能人だって、みんな
無理矢理不幸に蓋をして
「幸せなフリ」をして生きている。
何者でもないけれど、
何者かになったフリをしている。
その位置づけは自分から始まり、
周りが認めていくものなのだ。
だから私達だってきっと、
「幸せなフリ」をできるのだ。
評価なんて後からついてくる。
今はただやるしかない。
だから、大きな夢は持たなくて良い。
大きな夢を持ったって
過程がずさんなら元も子もない。
その過程とは今だ。今やるのだ。
夢なんて小さな目標達の
最終形態なのだから。
どう人生に色を付けていくか
どう人生を楽しむか
その為に今何をしていくのか。
友達なんていなくたっていいけど、
いた方が困ったときに助けてくれる。
うまく「幸せなフリ」をできた先に
周りに認められ幸せを喜ぶ自分と
本当の幸せがあるのだ。
だから私は
未来に怯えないで
自分のしたいことを、今 する。
「ぼっち」と自虐するたびに
傷付いてくれる人がいることに
君は気付いているだろうか。
今回のミスiDのテーマは
「ぼっちが、世界を変える。」
マジでぼっちだった人間としては、
かなりキツいテーマだった。
「世界を変える」なんて
突拍子もなくて無謀なこと、
本当のぼっちなら言えない。
だって、自分の人生を
変えることもできないのだから。
孤独であることに理由なんてなかった。
ただ、後付けでそれらしく「必要ない」とか
「めんどくさい」とか言い訳していた。
「私の孤独は誰にも救えない。
きっとお姉ちゃんみたいに可愛くて勉強ができて、お父さんもちゃんと居て、お金があったら私も」
尽きないコンプレックス、
馴染めないストレス、
嫌われる恐怖。
ふと、そんな昔の私を思い出して
「クソくらえ」と思った。
ぼっちは自分で変えるしかなかった。
今でも「変わっていない」と
言われるかもしれないが
化粧をしたり、勉強したり、
自分から話しかけたり、
話を弾ませられるように
色んな本を読んだり、
そういう地道な努力をするしかなかった。
こんなところきっと、みんな見ていない。
だけどそんな自分に自信をつけようと
何にでも手を付けて頑張った。
今でもコンプレックスは沢山あるけれど、
自信をもって「これが私」と言えた。
孤独を超えて孤高になった。
全てのコンプレックスを
「これからの幸運の前兆」
と捉えられるようになった。
私は、間違いなく”ぼっち”、つまり
”昔の私”を変えたのだ。
世界なんて変えなくていい。
ぼっちだって変わりたい。
私はあなたが「ぼっち」と自虐するたびに傷付きたい。
だって私も傷つけていたから。
そして、あなたを救いたいから。
孤独を誇ったふりは、もうやめた。
「あなたを救いに来ました。」
――なんてクサイ台詞。
本当に救われるのは私だったりして。