「〇〇に似てるね」と言われると
自分を否定されたような気がしてしまう。


ずっと学校の先生にも友人にも
出来が良く可哀想で可愛い姉と比べられてきた。
「お姉ちゃんすごく可愛いよね。
……でも、似てるよね。」
「お姉ちゃんみたいにがんばれ」
「姉妹だもん、比べられるものでしょ。」
姉のことは大好きなのに、
嫌いになりそうだった。

好きな女の子に告白した時に言われた。
「今の社会では君が傷つくことになる。
だからやめよう。
ほら、君にはもっと良い人がいるよ。」
別に貴女と一緒ならいいのに。

母が言っていた。
「〇〇人は旅先でゴミを放置するし
ルールを守らないし、本当に嫌だ。」
母はその国に行ったことはない。

級友に私の過去を話したら言われた。
「可哀想。不幸だったね。」
「お父さんいないの?“普通”じゃないね。」
私にとってはこれが “普通” だった。

中1の時に不審者に声をかけられた時、
家族に言われた。
「そんな風に声をかけられるような
場所や服装をしていたあなたが悪い。」
「もっと自衛をしろ。」
服装も 場所も全く変ではなかった。



兄弟姉妹は比べられるのが“普通”
男は女に、女は男に恋をするのが “普通”
国籍でその国の人を差別するのが“普通”
父も母も居るのが“普通”
不審者を招く人が悪いし、それが “普通”

私の未踏の社会では
セクハラに耐えて笑う女が素敵だし “普通”
嫌な仕事でもやり続けるのが “普通”
家族を大事にするのが “普通”
らしい。

それは本当に普通なのか?
そもそも普通とはなんだ?
私は幸せに生きていたいだけなのに。




昔からカテゴライズが苦手だった。




そもそも人間は一人ひとり
脳の形も臓器の強さも違うのに
何故言葉に括られなくてはいけないのか。


性別も国籍も顔もなにもかも。
女とか男とかトランスジェンダーとか、
アジアとかヨーロッパとか、
可愛いとか可愛くないとか、
カテゴリー分けされては否定される。

たしかに世界は便利になった。
カテゴリーのおかげで、
これまで見えなかった部分まで
鮮明に見えるようになった。
これまで見つけられなかった部分を
見つけてもらえるようになった。
同じ境遇の人がたくさん見つかった。

でもその分、たくさん悲しいことが増えた。

マジョリティが可視化され、
多数決で “普通” になった。
マイノリティは “普通” ではないから、
否定したがりがこぞって暴言を投げつける。
その言葉で傷つく人間がいた。
その言葉で夢を諦める人間がいた。
その言葉で命を絶つ人間がいた。
私はそれが悲しくて 悲しくて仕方なかった。


暴言を投げつける人が悪いのは重々承知で、
だけれどみんな違うからこその批判であり
価値観の違う人間は多くいる。
だけどそれは私には耐え難い。
インターネットの中だけならば
電源を切るだけでいいけれど、
今ではもうこれが “普通” 。



世界はもう少し不便で良い。



指先一つで言葉を全世界に発信できる。
全世界から情報を傍受できる。
ありとあらゆる怒りが 正論が
私の手元に流れ込んできては
“普通” に押しつぶされていく。

「結局変わらなかった、変えられなかった。」

そうして死んでいく、全ての言葉たちを
抱きしめずにはいられなくて
その悲しみ一つ一つに傷ついてしまう。

“普通” に従うのが正しい人間ならば
私は人間ではなくて良い。


「私は私」と言い切れるほどの
私らしさを見失った。
だけれど、それでも
誰しも「私は私」と言って良いのだ。
誰かの受け売りだって、
自分で咀嚼して声に出せば
それは間違いなく自分の言葉だ。


私たちが生きているうちに
“普通” がもっと柔軟な言葉になったら
もう少し楽しく生きていけるかもしれない。
幸せを追求することにもっと貪欲に。
傷ついた自身を誰もが抱き締められる
抱き締めてあげたくなる世界に。



苦しい時にヘラヘラ笑っていたら
中身がない人間だと思われてしまった。
だけれど、私は笑ってる私が大好きだ。



やっと自分を認められたところで
全てを否定されるような結果に
繰り返し打ちひしがれる毎日。
それでも、
傷つき慣れた体で、傷つく覚悟を決めた。
いつか全人類が幸せになれるように。

私はただ純粋に、

素朴に、愛していたい。

「好き」だけでは

どうしようもないことも

どうもこうもないことも、

わかっているつもりだ。

わかっているつもりだったのに。

 

どうせみんな勝手に愛して

信じて 裏切って 裏切られる。

 

 

一人で勝手に信じたくせに

少し違うことをしたら

「昔の方がよかった」

「らしくないね」

なんて言われて去られる。

信じられていた側の言葉は

どこに向かうんだろう。

勝手に好きになったくせに、

被害者のふりをしないでくれ。

「好きだった」を盾にしないでくれ。

 

 

 

私は、ただ好きなものを

ただ好きでいたかった。

好きで集まった人々が

透明に形成した決まり文句に、

どこかの誰かが勝手に名前をつけて

絵具でわかりやすく印をつけていく。

 

 

透明なままにしていれば

永遠にあやふやで、

片想いのドキドキみたいな

好きでいられるのに。

 

勝手なことばかりする大人が

透明だった空を濁して

大気汚染を起こしていく。

居心地が悪くて、

大好きな空を見ていられなくて、

悲しくて 悲しくて むなしくて

私は逃げ出した。

 

縋りつくようにペンタブレットで

絵を描いた。

好きを好きでいられるように。

 

こんなこと、あっていいはずがない。

「好き」だけを信じて動く私は

「好き」で息をしているも同然で

好きなものがなくなったとき、

私は生きるのをやめてしまうだろう。

 

わたしはまだ、ちゃんと愛したい。

剥き出しの嫌な部分も知ったうえで

ちゃんと咀嚼したうえで好きでいたい。

そうさせてくれない世界で

たぶん、私は生きていられない。

 

みんなが好きなことだけしていたら

世界は滅亡してしまうけど、

人生の半分以上

好きじゃないことをして

生きている私たちが

好きなものを好きでいる権利は

否定されてはいけないし、

邪魔されるべきではないと思う。

 

 

 

私は、好きなものを攻撃したくない。

ガードレールになって

正しい道を舗装して

好きなものが行く先を

出来るだけ一緒に眺めていたい。

 

ヒッセンの中で泳ぐ君を、

せめてバケツに、水槽に、浴槽に、

川に、海に移せたら――――。

そうしたら多少の絵具にも

透明のままでいられるのに。

私が水槽だと思っていたものは、

醤油差しだったようだ。

 

…やるせない。

前回のブログを書いてから、

結構な月日が経ってしまった。

ミスiD2018には落ちてしまったが

友達が増えたので良しとしよう。

悔しいけれど。悔しいけれど…。

 

 

 

「夢なんて叶わない」

 

高校生になってから、進路について

考える機会が多くなった。

 

周りの友達も会うたび

「進路どうするの?」

とか聞いてくる。

夢に向かって毎日勉強して

低浮上になった友達で溢れたSNSの

タイムラインはなんとも寂しかった。

 

 

『夢』

ざっくりしたこの漢字一文字に、

いったい何人の子供だった者達が

頭を悩ませられたのだろう。

 

 

私は昔から夢のない子供だった。

周りの女の子が七夕の短冊に

「プリキュアになりたい」と書く中、

プリキュアが好きだったものの

「プリキュアになったらどんな時でも

人を助けなきゃいけないから大変」と

ひとり「いぬ」とか「かめ」とか

動物になりたがっていた。

 

小学校に入ってから中学卒業までは

「夢は持っていたほうがいい」と言う

大人たちの言いなりになって

その場凌ぎの「夢っぽいもの」を

用意していた。

私には周りのキラキラした夢や、

夢を持たずにいられる勇気が

なんだか羨ましかった。

 

そうしていつの間にか

口うるさく 大人達が

『大学』『専門学校』『就職』

とかいう言葉で

頭蓋骨を殴ってくるようになった。

「夢を叶えたことないくせに」

と捻くれ、『夢っぽいもの』すら

なくなってしまった私は、ふらふらと

自堕落な高校生になってしまった。

 

だけれど、人生なんて

思ったより簡単に変わるものだ。

こんなわたしでも 今は、

夢を見せてくれる女の子に出会い

初めて明確な夢ができた。

 

 

「未来なんて たった今の積み重ね

 だから今が 大事」

(The Vision/モーニング娘。’16)

これは私が好きな歌詞だ。

 

 

時間なんて 生命なんて

勝手につながっていく。

生きること自体は無意識の連鎖で

頭を使わなくてもできる。

将来なんて私達が考えているより

簡単で呆気ない。

それを楽しいものにするのも

つまらないものにするのも

今の自分が何をして、

どのように繋げていくかだ。

 

そこに夢を叶えたことがないくせに

うるさい大人達が「心配だから」と

「高校は○○に」「大学に行け」

なんて脅かすから、

私達は一歩に足が竦む。

 

だけれど、

周りの幸せそうなパリピも

近所のおじいちゃんも

芸能人だって、みんな

無理矢理不幸に蓋をして

「幸せなフリ」をして生きている。

何者でもないけれど、

何者かになったフリをしている。

その位置づけは自分から始まり、

周りが認めていくものなのだ。

 

だから私達だってきっと、

「幸せなフリ」をできるのだ。

評価なんて後からついてくる。

今はただやるしかない。

 

だから、大きな夢は持たなくて良い。

大きな夢を持ったって

過程がずさんなら元も子もない。

その過程とは今だ。今やるのだ。

夢なんて小さな目標達の

最終形態なのだから。

 

 

どう人生に色を付けていくか

どう人生を楽しむか

その為に今何をしていくのか。

友達なんていなくたっていいけど、

いた方が困ったときに助けてくれる。

 

うまく「幸せなフリ」をできた先に

周りに認められ幸せを喜ぶ自分と

本当の幸せがあるのだ。

 

 

だから私は

未来に怯えないで

自分のしたいことを、今 する。

「ぼっち」と自虐するたびに

傷付いてくれる人がいることに

君は気付いているだろうか。

 

 

https://miss-id.jp/2018

 

今回のミスiDのテーマは

「ぼっちが、世界を変える。」

 

マジでぼっちだった人間としては、

かなりキツいテーマだった。

「世界を変える」なんて

突拍子もなくて無謀なこと、

本当のぼっちなら言えない。

だって、自分の人生を

変えることもできないのだから。

 

孤独であることに理由なんてなかった。

ただ、後付けでそれらしく「必要ない」とか

「めんどくさい」とか言い訳していた。

 

「私の孤独は誰にも救えない。

きっとお姉ちゃんみたいに可愛くて勉強ができて、お父さんもちゃんと居て、お金があったら私も」

尽きないコンプレックス、

馴染めないストレス、

嫌われる恐怖。

ふと、そんな昔の私を思い出して

「クソくらえ」と思った。

 

 

ぼっちは自分で変えるしかなかった。

 

 

今でも「変わっていない」と

言われるかもしれないが

化粧をしたり、勉強したり、

自分から話しかけたり、

話を弾ませられるように

色んな本を読んだり、

そういう地道な努力をするしかなかった。

 

こんなところきっと、みんな見ていない。

だけどそんな自分に自信をつけようと

何にでも手を付けて頑張った。

 

今でもコンプレックスは沢山あるけれど、

自信をもって「これが私」と言えた。

孤独を超えて孤高になった。

 

全てのコンプレックスを

「これからの幸運の前兆」

と捉えられるようになった。

 

私は、間違いなく”ぼっち”、つまり

”昔の私”を変えたのだ。

 

 

世界なんて変えなくていい。

ぼっちだって変わりたい。

 

私はあなたが「ぼっち」と自虐するたびに傷付きたい。

だって私も傷つけていたから。

そして、あなたを救いたいから。

孤独を誇ったふりは、もうやめた。

 

 

 

「あなたを救いに来ました。」

――なんてクサイ台詞。

本当に救われるのは私だったりして。

私が私になったのは中2の夏だった。

自分のキャラクターを確立させた、
と言えば分かりやすいだろうか。

「一般人がキャラ付けなんて
    愚かだ、馬鹿馬鹿しい」
と思われるかもしれないけれど、
私はこの生き方が1番生き易い。
自分で決めたキャラとのギャップに
人間であることの自覚が芽生えて
生の実感を味わっている。

私を生んだ神様はきっと、
落ちこぼれである。


人によって確認できる神様は違う。

私はすべての神様を信じているし、
すべての宗教を信じていない。
神様直々のお告げしか信じない。
人間が間に入る隙間など無いのに
人間が無理矢理こじ開けて
金儲けしやすい解釈をするのだ。

けれど、だからといって
信者を軽蔑することはない。
彼らは被害者だ。

人間により深く傷を負い
人間に利用され
マニュアル通りの対応を神と信じ
皮肉にも人間で心を癒しているのだ。
心を深く傷付けた人間は
傷付けているものに気付けない。



あなたの信仰する神は誰だろう。
それが誰であっても構わない、
だが神は金を搾取しない。
神を信仰する者が搾取している。
その者も神とするなら話は別だが…



神様は全能じゃない。
むしろ無知である。
地球の仕組みも知らない。
人間のことなどさっぱりである。
だから人間に怒り、呆れるのだ。

頼りないと感じる人もいるだろう。
全知全能がデフォルトと信じる人も
いるだろう。それならそれでいい。

でも私は全知全能じゃない方が
安心してしまう。
神に心を馳せて 救われるのだ。
人間よりも人間臭くて阿呆らしい
そんな程度でいいのだ。


偶像崇拝は信仰を進行させる
1番の方法だと思う。けれど、
偶像の押し付けであることを
常に考えなければならない。


もしも信仰している神が
現実に住まう人間だとしたら。

これは現代のアイドルで俳優で
歌手でバンドマンで芸人だ。
あなたの"好きな芸能人"で、
好意を寄せる"好きな人"だ。

沢山の神を信仰して
視野を広げるのは構わないと思う。
…勝手に自分で作り出した
"偶像"を押し付けていなければ。


もしも
「神様が無知無能でも信仰する」
そう誓えないなら信者失格である。

そして、
あなたの信仰心が完全なほど
あなたの心の傷は深いのだ。

ブログの更新がない間、
私は現実を更新していた。
現実を着信拒否したい。

電話に出んわ…

☎︎💭


(ググって分かったのだが、恋慕は
「特定の"異性"を恋い慕うこと」
を意味するらしい。
この言葉は、こんな私には
合わないかもしれない。)



今 私には好きな人がいる。

「何年前にフラれた経験があるから
臆病になる」…とか
そんなことは無いのだけれど  ーー。




私の告白は自己完結だ。

告白  ー というより独白の方が
ニュアンス的には正しいのかも。

特にどの"性別"を好きでもなく
眼鏡とギャップに萌える私は
所謂"バイセクシュアル"である。

それが世間一般には受け入れ
られないことも分かっている。
なにより、好きな人に
迷惑もかけたくない。

コンプレックス塗れの自分が嫌で
「貴方の恋人でいる自信がない」
と、恋人と別れたこともあった。
自己完結、それは 自己満足。

私は性的な関係を一人称視点で
見るのが苦手で 下品な人が嫌いだ。


私は好きな人の近くで、
好きな人に萌えられたら
それでいいのだ。

敬愛であり、崇拝。

性根汚い私だから
身体くらいは綺麗でいたい。
私はそうやって自己肯定感を保つ。
こんな私が好きな人の身体を
汚せるはずが無く、あったとしても
のちに自己嫌悪で自害するだろう。

だから、今の望みは
好きな人とたくさん遊ぶこと。
好きなものを共有していられるのは
とても幸せなことなのだ。
ありがとうございます、なのだ。


🙇🏻‍♀️


最近の私が自分磨きをするのは、
好きな人の隣でお話しできる権利
が 欲しいから。
別に誰も咎めないだろうけれど、
これは私のけじめだ。

好きな人に好かれる為の努力は
身勝手で生産的で 自棄的だ。
好かれる為の努力は
自分をも 少し 好きになれる。



いつか自分に自信が持てたら
自己完結ではない、一般的な
本当の告白ができるのかな。


ーー  もしかすると、
それが出来るようになった頃に
本当の恋が始まるのかも。
前回(いい肉の日)のブログで、
「ちょっぴりいい肉食べちゃおう」と
近所のスーパーで唐揚げ棒を4本買い
1人で食べたら、胃もたれした。
まぁ、そうだよなぁ…。



今回のタイトルは、
「井の中の蛙 大海を知らず」という
大変有名なことわざの続きである。

誰しも空の深さくらいは知っている。
みんな子供の頃に仰いだ空だ。

だが、働き詰めで大海を泳ぎに泳ぐ
社畜たちは 空の深さを忘れている。


この空は 数年後忘れられる存在か。
きっと人間は知っていても、
いつか忘れてしまう生き物である。

だから蛙は大海を知りたいのだ。
空だけでなく、大海も知りたいのだ。
忘れる前に、二物を知るのだ。
天から与えられることなく、
奪い取り 知るのだ。

私は、まだおたまじゃくしだけど
そろそろ腕だってはえてくるはず。


蛙といえば、福岡に住んでいた頃
夏の夜は田んぼから蛙の声がして
眠れなかったことを思い出す。

蛙の歌は輪唱して完成する。
1人を周りが支えるのである。
リフレインは強調。存在証明。



あの空は確か、七夕の空。
大事な空を心に忘れないでいたい。
「人に支えられている」と
最も感じる瞬間はいつだろう?

人の気持ちなんて操れない。
人の気持ちなんてあてにならない。
人の気持ちなんて知り得ない。
でも、だから寄り添いたい。

「今日はバイト先でうまく動けなかった」だとか、
「晩御飯の支度をサボった」だとか。
そんな他愛もない後悔をカバーしてくれる人々の姿。支えられている瞬間。
私が「ありがとう」を伝えるとき。
たぶん、そんなところかな。

🌐

拡散=ネットの世界の持ち味。
私は好きな人を有名にして、
好きな人を喜ばせたい。
だから拡散する。好きなものを拡散。



先日、ツイッターの投票機能で
好きなものを拡散しない人が
12人中、 9人という結果が出て
とてもとてもショックだった。


私のイラストや言葉たちは、
拡散してくれる3人に支えられている
本当にありがとう、ありがとう…

🌐

他人の感情を完全に理解するなんて
エスパーでもない限り
人間にはできないけれど、それでも
話を聞いたり言葉を添えたり
さみしい気持ちの隣にいることは出来る。

誰かの力になることは大変で
時につらかったりするけれど、
それでもその後に「ありがとう」って
言ってもらえるのが嬉しくて。



人は他人の労力無しで生きられない
 ≒ 生きるためには他人の労力に
    ならなくてはならない

大人の途中ワガママを言える場所。

言いにくいことも言って、
良い肉を食べて、
憎いことも許せる。
まだ私はそんな時間に生きてる。

17歳のいい肉の日は、稼いだお金で
ちょっぴり良い肉食べちゃおうかな。
なんて コンビニでジャンクな唐揚げ
3パック買うつもりで…うふふ。

少しの冒険、給料日前のピンチ…
それって生きてる!生きてる醍醐味!


わたしは、まだ生きていたい…!
だから、支えるのだ。

この17年間、色んなことがありすぎた。



私の人生は関西風だ。
第一声に「うわ、しょっぱい!」

だけど、だんだん塩気に舌が慣れて、おいしくなってくる。
ダシが効いていることに気づいて、最後に口いっぱいに広がるのは柔らかな優しい甘味。

そうであってほしい。
いや、そうしなきゃいけない。


両親が離婚したり、家が全焼したり、最近ではいじめられて不登校になったり。
小学生の頃だったか…。母が外国人の恋人を連れてきた時、「…コイツ正気か?」と思ったけれど、なんだかんだうまくやっている。


人生ってしょっぱいけど、おいしい。


だれかの「つけあわせ」で満足するな。
ひとりのソウルフードにならなきゃ意味がない。
たとえば私は、お好み焼きになれる存在。

味付けは一人ひとり違うけれど、
誰しも美味しい人生を生きられる。
それは自分がどう調理するかが1番重要。

自分の人生に
なにを入れて
どう調理して
どう仕上げて
どう盛り付けるか。

上手くできたら、美味しくなる。


これは私の、世間や海苔弁作るような大人達への反抗声明である。

私みたいな人間が声をあげなきゃ意味がないんだ。いくら金持ちが変えようとしたって、奥底までは信じられないんだ。
貧乏でも、崖っぷちでも、こんなに上手く生きていけるって証明しなきゃ。
不器用に器用を演じるんだ。

ラッキービンボーだけで生きてきただけの私が、必要とされる時代。
今こそ反旗を翻さなきゃいけない。
世の中の貧乏人、不幸人、大して不幸でもない人、結構幸せな人も全員!幸せになる時代を作りたい。


私は、絶対に幸せに生きてやる。
この腐った世界の為に幸せに生きてやる。



今に見てろ。