​*この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 

 将棋と棋士が侮辱され、将棋界が破壊されようとしている。
 アナタベは将棋と棋士を、将棋界を、体を張ってでも守るつもりだ。序列一位の覇王位というタイトル保持者である自分の責務だと思う。
 ミウは明らかに不正を行っている。対局中にスマホを使って、将棋ソフトで指し手を調べているのだ。
 人間同士の真剣勝負の途中に席を外し、不正を行って勝負に勝つなんてことを許すわけにはいかない。
 他にもいるかもしれないが、まず、ミウを糾弾しなければならない。
 一罰百戒を喰らわせてやる。

 

 そもそも、コンピュータに将棋を教えたのが間違いだ。
 コンピュータの黎明期に、若い連盟関係者が当時のおもちゃのようなコンピュータで将棋プログラムを書いているのに気付いて、大名人大山が叱りつけたという。「コンピュータなんかに将棋を教えたら、人間が負けるに決まっているじゃないか」と。
 全く、そのとおりになってしまった。まだ、連盟や棋士は公式には敗北宣言を出していないが、今ではコンピュータソフトが人間より強いと誰もが思っている。
 対局中にソフトを使って不正に勝つズルが出てくることも当り前だ。

 

 このままでは、棋士も将棋連盟も世間の物笑いになり、将棋も将棋界も滅ぶだろう。

 まずは、谷上会長や藪三冠、里安棋士会長たち、将棋界の重きをなす人たちに、ミウが対局中に将棋ソフトを使っているということを教え、わかってもらわなければならない。
 アナタベは、冷静に説明しようと努めた。

 

 谷上会長たちが注視する中で、アナタベはミウ九段に敗れた先週の将棋を盤面で進め、あわせて、コンピュータソフトの読み筋も説明した。
 当日の対局後の感想戦でミウが示した読み筋がそれと同じだったこと、そして、ミウ九段の度重なる離席のタイミングも。
「ミウ九段の妙手が多いんですけど、この8五桂、5五桂、どう思いますか」
 終盤、大差がついた局面で進行を止め、アナタベは先輩棋士たちの表情を窺った。


 重い空気の中、谷上会長が口を開く。
「確かに、8五桂も5五桂も気づきにくい妙手だね。どうかな、藪さん」
「ええ、鋭いですね。升田先生を思い出しました。それにしても、51手目の7五歩から、この局面を想定して指しているとすれば、凄まじいですね」
「まさか」と天野が大きな声を出した。「人間わざじゃないですよ」
 アナタベは天野に一瞥をくれてから、次の棋譜を配った。
「コンピュータソフトの強さは皆さんもうご存知だと思いますが、実はこの七月にスマホの将棋アプリでも強力なものが使えるようになりました。プロ棋士級、あるいはそれ以上の強さです。天野君も負けているようです」
「いやいや」
「ミウ九段は、その時期から明らかに棋風が以前とは違っています。対局者に確認したところ、頻繁に席を外してもいます。これは、覇王戦挑戦者決定トーナメントの準決勝戦ですが、この局面、いかがでしょうか」
「ここで6七歩成と踏み込むんですよね」
「はい。藪さんは、踏み込めますか」
 この問いには、藪はすぐに答えようとはしなかった。代わりに、志茂九段が口をはさむ。
「この棋譜を最初に見たときは確かに、暴発だろうと思ったよねえ」
「俺はありえないと思うんですよ。これで負かされた坪九段は今も納得できないと言っています。坪さんに聞いたら、やっぱり、俺のときと同じで席を外すことが多くて、それも、坪さんが指したら、それを見てから席を外していたそうです。普通、自分の手番で席を外しませんよね。坪さんも、ミウ九段にやられたと思っています」


 さらにアナタベは別の二局も並べて、ミウが明らかに将棋ソフトを使って指していることを説明した。
「それから、今日は万田君にも来てもらったんですが、ご存知のとおり、万田君はコンピュータソフトの研究ではナンバーワンです。先週の対局後、万田君に相談してミウ九段の指し手とコンピュータソフトの指し手を比較してもらったんです。その結果を、じゃ、万田君、先生方に説明してください」
 万田の説明は、専門用語が入ってわかりにくい。

 先週、アナタベが説明を聞いたときも、何度も質問しなければならなかった。

 万田が配ったペーパーも数字の並んだ表が印字されているだけで、何のことやらわからないが、誰も質問しない。
 万田はそのままにしておくと、延々と将棋棋士には通じない言語でしゃべり続けそうだった。アナタベは、万田の説明が一区切りしたところで、遮った。
「要するに、ミウ九段の指し手とソフトが選ぶ手とがどれくらい一致するのかを調べたら、この4局では、定跡手順を外れて以降の一致率が90%を超えているわけですよ。万田君が説明したように、万田君でも」
「まあ、60%前後ですね。普通の棋士の先生方の一致率はさらに低いでしょう」
「90%超えの一致率なんて、ありえないんですよ。どうですか。ミウ九段が不正をしているのは確実です。直接の証拠がないとクロだとは言えないって意見もあるかもしれませんが、もう覇王戦は五日後、今度の土曜日です。こんなインチキをするやつと覇王戦を戦えって言われても、私は納得できませんよ」
 アナタベは、自分の声が大きくなってきたと自覚して、冷静さを取り戻そうとした。もう少し我慢だ。
 少し間が開いて、志茂理事が座を取りなすように口を挟んだ。
「アナタベ覇王の言いたいことはわかりますよ。確かに、ミウ九段には不正行為があったのではないかと疑われるよね。先週の棋士月例会でもスマホや電子機器のことについては規制を強化するということで、注意喚起もしたんだけどね」
「そういうことではなくて、まず、ミウ九段が不正をしているということですよ。これだけ説明しても、こんな状況で白の可能性があるというんですか。もう、疑われるというレベルじゃないですよ」
「いや、黒に近いとは思うんだけどね」
「他の先生方はどうですか。私は、谷上先生、藪さん、里安さん、名人位、覇王位を獲得された先生方であれば、この棋譜でわかってもらえると思いますが、どうですか」
 誰も返事をしない。
 沈黙を破ったのは、天野だった。
「99.9%やっていますね」