皆さん、台風被害は大丈夫でしたか?

こちらは直撃で暴風と強雨でした。
幸いな事に、被害はなくホッとしました!

母の四十九日も無事に終える事が出来て
良かったです。

母が危篤状態になった日も台風が接近していて
母が亡くなった翌日には、土砂降りの中
遺体搬送をしました。

それから連日、雨ばかりで晴れる日が少なく
お葬式の日も雨でした。

母は『私は晴れ女』だと言ってましたけど
台風+梅雨じゃ仕方ないですね。

※※※※※※※※※※※※

私は母の闘病日記を中心に、綴ってきましたが

『母の最期の日』の事を書く事が、どうしても
出来ずに、ずっと今日まで避けてきました。

四十九日を終え、少しずつ気持ちも落着きつつ
ある今、あの日の事を思い起こしながら
書き留める事で、母の死そして何より自分と向き合える、そんな気がします。

決して無理をしているわけではありません。
自分の為にも、書きたいと思っています。

かなり長文になると思いますが、お付き合い頂けたらと思います。

辛い内容となりますので、読みたくない方は
どうかスルーして下さいね。





あの日の前日から、母が危篤状態になり
先生の話では『2~3日』と言われて
いましたので、父と二人で病室に泊まり
母の側に寄り添っていました。

2時間おき位に痙攣がおき、痙攣が治まると
寝息を立てて、寝る。
これが、ずっと続いていました。

痙攣がおきている時は、慌てず騒がず
ただ手を擦り囁くように「お母さん、大丈夫だよ。ここに居るからね」と。

痙攣がおきている時に、騒ぎたてると
(本人には聴こえている)逆に身体が
硬直してしまうらしく、安心させる為に
治まるまで静かに見守るしかないと
看護師さんに教えて頂きました。

痙攣を止める薬もあるのですが、意識のない
母に使うと、そのまま亡くなる場合もあるので
痙攣は辛そうで可哀想でしたけど
薬は使いませんでした。

痙攣すると母の強く閉じた目から涙が...
それを拭きながら、私も泣いてました。

「何もしてあげられなくてゴメンネ」と
ずっと思いながら。

お昼位になると、痰が絡み苦しそうで
痰を吸引してもらうのですが
その時、意識がない母も「グーウー」と声を出しながら嫌がりました。

看護師さんも「ごめんね、嫌だよね、もう終わるから我慢してね」と
言いながら取ってくれてました。

母は胸水が溜まっているので、痰を取るのも
最小限にしないと身体の負担になるそうです。

夕方からは、何度も血圧低下が見られるようになりましたが、また持ち直す。

心拍数は、しっかり標準値ありました。
母は心臓が強い人だと先生から言われました。

母の手足を擦ったりして、爪が伸びている事に
気付き、看護師さんに伝えて私と2人で切りました。
私は足の爪。看護師さんが手の爪を。
深爪させてはいけないので1本1本慎重に。

サッパリしたかな。


午後7時、姉の職場に母の様子を報告して
「仕事が終わったら直ぐに行くね」と。

その後、病室に戻り父と二人で、母に色んな話をしました。

目を開けなくても、私たちの話は母に聴こえているから沢山、話し掛けました。

暫くすると叔父と叔母(母の妹)が来ました。

前日から危篤状態なので、叔母は日に何度も来てくれてました。
私達と一緒に話し掛けました。

午後8時過ぎに、看護師さんが痰を吸引しに
きました。

「あれから3時間ですから大丈夫ですよ」
と痰を吸引。

でも、その時、母は嫌がらなかったのです。
3時間前は、あんなに声を出して、嫌がってたのに...。

それから20分後。
すぐ前にあるナースステーションから
母に繋がれたモニター音が鳴り出しました。

母を見ても特別、変わった様子はなくて...
苦しそうでもなく。

私は一瞬『間違えでは?』と思いました。
でも直ぐに、看護師さんが急いで来て
バイタルチェック。

「血圧63、戻りませんね。。。
会わせたい方がいらっしゃれば呼んで下さい!
先生をお呼びしてきます」

その日は、日曜日。
多分、当直されてたと思います、2分程で来て
頂きました。

私は姉に電話をし、姉も「直ぐ行くから」と。

姉の職場から、車で5分はかかる。
私は内心『間に合わないかも』と思いました。

電話を切った時、デイルームに看護師さんが
走って来て「側に付いていてあげて下さい」

私も走って病室へ。

先生が「声を掛けてあげて下さい」

私と父と叔父叔母は、母に呼び掛けました。

「お母さん、ありがとう。頑張ったね。
もう、頑張らなくて良いよ。ゆっくり休んで
良いよ。大好きだからね、お母さん」

すると5秒に1回程度の呼吸を、5回程して
最後に『ハー』と1息吐いて、それからは
息をしなくなりました。

先生が「確認を致しますので、暫く病室の外に
出ていただけますか」と。

2分後、看護師さんが「中へどうぞ」と。

先生が
「私の時計で午後8時41分。御臨終です」

私は、その時に何を思ってたかな?
いま考えても、思い出せなくて。

『終わったんだな』って思ったかな。

先生が外に出られて、入れ違いに姉が病室に。

私は泣きながら
「お姉ちゃん、お母さん逝っちゃったよ。
苦しまずに安らかだったよ」

姉は言葉にならない言葉を言いながら
遺体になった母に、しがみついて泣きました。

母は皆に囲まれて、穏やかな顔で本当に
寝てる様な顔をしていました。

いつもみたいに、起きて『朝顔、お腹空いたね』って言いそうな顔。

10分程経ってエンゼルケアが始まりました。

「お化粧は私がしても良いですか」と言って
私は、お化粧を、させてもらいました。

母は派手なお化粧は好きではなかったので
ファンデも口紅もチークもナチュラルに。

看護師さんが「お母様、美人な方ですね」って
言ってもらえて、母も喜んだと思う。

そう言えば私が幼稚園の時に、男の子に
「朝顔はブス!」って、からかわれて
家に帰って母に「朝顔はブスなの?」って
言ったら「朝顔は、お母さんに似てるから
美人さんだよ」って。。。
私は「イヤダ、イヤダー」と近所中に響き渡る
位に大声で泣き叫んだ事があったな。

あの時は、ごめんね、お母さん。

今は似てるって言われる事は、嬉しいよ。

エンゼルケアが終ると、看護師さんが役場に
遺体搬送の件で電話をしてくれたのですが
時間外で、その日は連れて帰れなくて
仕方なく安置所で保管される事に。

早く連れて帰りたい思いでした。
12時間も一人で安置所なんて。。

仕方なく家族と親戚は各々、帰路に着きました。

帰ってからは、とにかく話す事も出来ず
「お父さん大丈夫だから、私達が居るから」
とだけ言った。

一番の心配、私の中では父の事だから。
母も父の事を常に心配してました。

母が亡くなった事は事実で。現実。

遺された者の事を考えなければいけなくて
でも、それはそれで辛くて頭が回らない。

翌日、大雨の中母を迎えに8時に病院へ。

色んな手続きをして、搬送口に行くと
先生や看護師さん医療スタッフの皆さん
総勢20数名がいらっしゃいました。

皆さんで母を見送って頂きました。

やっと、大好きな家に帰れるね。


母を寝かせ遺体に触れると、顔や手足は冷たいのに首は他の所よりも温かかった。
今でも手が、その時の感触を覚えてます。

まだ亡くなって13時間だもんね。
温かいよね。


これが母の最期の日の日記です。


いま私達家族は少しずつ前向きになろうとしています。

『母の最期の日』

これを最後まで書けて良かったです。
(途中、涙で打てなかったですが)

これで、やっと私のブログも一段落した感じが
します。

ずっと避けてきた事、思い出すのが辛いと
封印してきました。

でも『逃げない』これは母と約束した事。

これで1つ約束が守れたかな。って思います。

そして、もう1つ約束した事。

「朝顔の誕生日は、お母さんに何があっても
しなさい。朝顔が生まれたお祝いだから」

8月1日が私の誕生日。

家族と相談した結果する事にしました。

母との約束ですから。

そして約束の『マヨコロ』も食べます。

お母さん誕生日、喜んでくれるね。
賑やかなのが大好きな、お母さんだもんね。

生んでくれて、ありがとう。

また来世も、大好きな、お母さんの娘に生まれたいです。
大好きな大好きな、お母さん。

痛みで辛い時も、いつも笑顔で最後まで
家族を守ってくれた、お母さん。

屈する事なく最後まで病気と闘った
本当に強いお母さんでした。

空を見上げ、夜空を見上げ、いつもお母さんの事を想っています。

これからも私の最愛のお母さん。

貴方の娘に生まれて良かったです。



長文、お付き合いありがとうございました。

皆さんに支えられながら、なんとか四十九日も
終えられた事に、心から感謝致します。

悲しさは、まだまだ続いておりますが
ゆっくり一歩ずつ、前進したいと思います。


これからも、何かあればブログ更新して
いきたいですし、皆さんのブログにお邪魔するのも私の楽しみの1つなので、これからも
宜しくお願い致します☘️☘️☘️☘️

読んで頂きありがとうございましたおねがい