この記事は、スター
にもヅカにもまったく関係ありません。
ただわたしが、自分のためだけに書く記事です。
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2011年5月26日木曜日18時。雨の夜。
大阪のある病院の一室で、父・あきおが静かに息を引き取りました。
父の病室で、母が買って来たお弁当を母と兄とわたしの3人で食べつつ、
母は、眠ったままの父にテキトーに話しかけ、
わたしたちは、普段どおり取るに足らない会話をし、いつもの通り笑い合い、、、
ふと気づくと。
その日、ずっと苦しそうな息をしながら眠っていた父は、急に静かな呼吸をし始めました。
そして、そのまま逝きました。
それまでの苦しみが冗談に思えるような、あまりにも静かな最期でした。
あっけないものです。ほんとに。
しかも、あんなに苦しんだくせに、微笑ってました。
去年の年末。母から電話がありました。
「ガンの疑いがあるから、お正月明けたらPET検査せんといかんねん」
年末、兄が彼女を連れて帰国し、ちょっと早めのお正月をしました。
毎年恒例の父のお手製栗きんとん。
彼女が「(おせちの中で)これがいちばん美味しい」と言っていっぱい食べてくれ、父はすごく嬉しそうでした。
年明け4日。PET検査。
そして、1週間後に肺がんの告知を受けました。
小細胞肺がん。すでにあちこちのリンパに転移しており、ステージ4。
手術で取り除ける状態ではありません。
「でもまだ末期というわけではありませんからね。抗がん剤で積極的に治療を行います。」
お医者さまの説明を、あきお、母、わたしで聞きました。
先生:何か聞いておかれたいことはありますか?
母:(鼻をすすりつつ、必死で泣くのを我慢)
華:(首を振る)
あきお:先生、反対に髪生えてきませんかね?
まさか、親のガンを宣告されてる場で笑うことになるとは思わんかった。。。
数日後、1クール目の抗がん剤の投与が始まりました。
入院中、退屈しなくていいように。と、77歳にしてメールデビュー(笑)
読書が大好きなあきおらしい、ステキなメールを受け取るのが、わたしの毎日の楽しみになりました。
数週間後。
まったくといっていいほど副作用もなく、父は元気に退院しました。
2月下旬。
2クール目。4泊5日の入院。
ガンが消えました。
父はどっからどーーーみても健康体でした。
3月のはじめ。
華のパソコンには、罫線を引けるソフトがついてますか?
体温とか血圧とかを記録する表を作りたいと思って。
華先生の特別エクセル講習会開催です。
わたしが今まで教えてきた中(華は15年間パソコンのインストラクターしてました)で、77歳は最年長の生徒です(笑)
父はとても楽しそうでした。
3月19日。
あきお78歳のお誕生日。
前の日に、「明日行くからね。」とメールを入れたところ。
おはよー
待ってるよ
パソコンのこと、イーッパイたずねたいこと、手直ししてもらいたいこと、沢山あるので、覚悟して来てください
あはは。77歳の書くメールとは思えん。可愛い
「78」のロウソクの灯を照れくさそうに吹き消したあと、
ひとりで頑張って作ったエクセルの表を見せてくれ、「ここはもっとこうしたい」「ここに線を引けたらええんやけど」と、意欲満々
何度もやり直しを重ねつつ、1枚に1ヶ月間の体温やら血圧やらなんやらかんやらを書き込む、記録表を完成させました。
父は、印刷した2人の共同作品を満足げに、本当に嬉しそうに眺めていました。
翌日。
昨日はありがとう
誕生日にケーキで祝ってもらうなんて思ってもなかった、ありがとう。
パソコンのこと、考えた以上に完璧にできて、感激している
私だけではとてもああは上手くいかない、本当に良かったありがとう。
今も取り出しては、満足して見入っているところです。
3月22日。
自信作の記録表を携えて3クール目の入院。
CTの結果、ガン再発が確認されました。
病室から見える桜の咲き具合を知らせてくれる朝のメールが、わたしたちの日課になりました。
4月初旬。
ガンが骨に転移。
腰と足の骨に転移したため、起き上がることも歩くことも困難になりました。
どんどん食欲がなくなり、目に見えて痩せて行く父を見るのが辛かったです。
ネットでいろいろ調べるたびに悲しくて辛くて。。。
でも、震災の後で世間が大変なときに、自分がこんな個人的なことで悩んでいるということに、罪悪感のようなものを感じてしまい、誰にも話せませんでした。
父の前では泣きませんでした。
でもそれでもう、いっぱいいっぱいで。。。
母の不安までを受け止める自信がなく、母に会うことができなくなりました。
4月下旬。
眠れず、仕事もまともにできず、誰にも話せず、、、
つぶれてしまいそうなとき、相棒Nちゃんが気づいてくれました。
「もしかして、あきおパパどうかした?ブログ読んでてなんかちょっと思ってんけど。」
ひとりで溜めていた重すぎるものをやっと吐き出すことができました。
「最期、どうしたいかをちゃんと聞いたらんとあかんよ」
翌日。
もともと患っていた間質性肺炎が悪化。
母の電話を受けて駆けつけた病院。
父がベッドで酸素の管を鼻につけて、息苦しそうに眠っていました。
はじめて父の前で泣きました。
泣いて、泣いて、、、ゴミ箱がティッシュで山盛りになっちゃいました
泣きながらもいろんなことを話しました。
父はどちらかというと寡黙で、わたしは昔から超自己中のマイペース人間。
いままで、わたしたちはそれほど親密な親子ではなかったと思います。
でも、父のこの病気を介して、わたしたちはすごく仲良しになりました。
会社帰りに父の病室に寄るのが楽しくて、2人で過ごす時間が大好きでした。
食欲がないときでも、わたしが持って行くスイーツは食べてくれ、
その後、病院食を半分コして食べました。
父は必ず、食事についてくるカードにお礼を書いて食器を返却しました。
「世話をしてくれる人たちは、ちゃんと名前で呼ばないと」
と、看護師さんたちの名前を全部覚えていました。
そして、2人で作ったご自慢の記録表に、毎朝毎晩きちんと数字を書き込んでいました。
(この表は看護師さんや先生たちの間で評判になり、父が字を書けなくなってからは、看護師さんたちが代わりに書き込んでくれました。)
4月末。
父の望みを叶えるためホスピスの見学に行きました。
お医者さまとの面談の日程を決める際、早い日程を嫌がる母の意を酌んで24日にお願いしました。
父はどんどん痩せていきました。
それでも、「みんなが一生懸命世話してくれてる気持ちに少しでも応えないと」と、必死でご飯を食べる努力をしてました。
5月21日。
母から、肝臓に転移したことを知らされました。
そして、せん妄が出てきたと聞かされました。
せん妄は、肝臓の正常な機能が失われることで出てくるそうで、症状的にいうと認知症に似ています。
ガンについてネットで調べ、いろんな症状を知り、その中でわたしがいちばん恐れたのが、「父が父らしくなくなること」でした。
父はとても頭のいい人でした。
まじめで勉強家で礼儀正しく、誰かに迷惑をかけることや、「みっともなさ」を心底嫌う人でした。
それが「父らしさ」でした。
24日。
ホスピスの面談に行く前に病室に寄りました。
父は苦しげで、薬のせいで眠ってばかりいました。
面談行って来るね、と声をかけると、「うん。しっかり見てきて」と眠たげに言ってました。
25日。
母から、「せん妄がひどくなったので個室に移った」と電話を受け、病院に駆けつけました。
父は、熱の苦しさも伴ってひどい状態でした。
母が泊まる準備をしに家に戻っている間、苦しみ続ける父をただ見ているしかできませんでした。
大きな声で怒鳴られ、それが正常な意識ではないということがわかっていても、深く傷つきました。
思わずベッドから遠くに座ってしまったわたしを、父は悲しそうに見ていました。
母が戻って来た頃にやっと熱が引き始めました。
眠っている父の横で、コンビニで買って来たお蕎麦をすすっていると。
うまそうな音がするな
と、父の声がしました。
聞きなれたいつもの、わたしが知っている父の落ち着いた声でした。
母が、口元に運んであげると美味しそうに少しだけ食べました。
父は大の蕎麦好きでした。
「じゃ、お父さん、またね。」
病室を去るとき声をかけると、
「ありがとね」
いつもの父の声で送ってくれました。
26日。
午前中だけ出勤し、すぐに病室に向かいました。
わたしが到着したとき、母は一旦家に帰っていて、空港から直接来た兄だけが座っていました。
(兄は土曜日に帰国する予定でしたが、それを急遽早めて帰国していました。)
父は苦しげな息で眠り続けていました。
兄やわたしが何度か呼びかけても反応はなく、ときどきうめき声のようなものを発しました。
母が戻ってきてからも、言葉は発することはなく、
そしてそのまま逝きました。
だから、わたしが聞いた父の最後の言葉は、「ありがとね」です。
これ以上ない、最高の言葉です。
病室の片づけをしていると、あの記録表が出てきました。
余白に震える文字で
「華と作ったこの表、あと何枚使えるだろうか」
と書いてありました。
お父さん
よく頑張ったね。
楽しい時間をありがとね。
またね。
ありったけの愛を込めて。娘より。

ただわたしが、自分のためだけに書く記事です。
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2011年5月26日木曜日18時。雨の夜。
大阪のある病院の一室で、父・あきおが静かに息を引き取りました。
父の病室で、母が買って来たお弁当を母と兄とわたしの3人で食べつつ、
母は、眠ったままの父にテキトーに話しかけ、
わたしたちは、普段どおり取るに足らない会話をし、いつもの通り笑い合い、、、
ふと気づくと。
その日、ずっと苦しそうな息をしながら眠っていた父は、急に静かな呼吸をし始めました。
そして、そのまま逝きました。
それまでの苦しみが冗談に思えるような、あまりにも静かな最期でした。
あっけないものです。ほんとに。
しかも、あんなに苦しんだくせに、微笑ってました。
去年の年末。母から電話がありました。
「ガンの疑いがあるから、お正月明けたらPET検査せんといかんねん」
年末、兄が彼女を連れて帰国し、ちょっと早めのお正月をしました。
毎年恒例の父のお手製栗きんとん。
彼女が「(おせちの中で)これがいちばん美味しい」と言っていっぱい食べてくれ、父はすごく嬉しそうでした。
年明け4日。PET検査。
そして、1週間後に肺がんの告知を受けました。
小細胞肺がん。すでにあちこちのリンパに転移しており、ステージ4。
手術で取り除ける状態ではありません。
「でもまだ末期というわけではありませんからね。抗がん剤で積極的に治療を行います。」
お医者さまの説明を、あきお、母、わたしで聞きました。
先生:何か聞いておかれたいことはありますか?
母:(鼻をすすりつつ、必死で泣くのを我慢)
華:(首を振る)
あきお:先生、反対に髪生えてきませんかね?

まさか、親のガンを宣告されてる場で笑うことになるとは思わんかった。。。

数日後、1クール目の抗がん剤の投与が始まりました。
入院中、退屈しなくていいように。と、77歳にしてメールデビュー(笑)
読書が大好きなあきおらしい、ステキなメールを受け取るのが、わたしの毎日の楽しみになりました。
数週間後。
まったくといっていいほど副作用もなく、父は元気に退院しました。
2月下旬。
2クール目。4泊5日の入院。
ガンが消えました。
父はどっからどーーーみても健康体でした。
3月のはじめ。
華のパソコンには、罫線を引けるソフトがついてますか?
体温とか血圧とかを記録する表を作りたいと思って。
華先生の特別エクセル講習会開催です。
わたしが今まで教えてきた中(華は15年間パソコンのインストラクターしてました)で、77歳は最年長の生徒です(笑)
父はとても楽しそうでした。
3月19日。
あきお78歳のお誕生日。
前の日に、「明日行くからね。」とメールを入れたところ。
おはよー
待ってるよ
パソコンのこと、イーッパイたずねたいこと、手直ししてもらいたいこと、沢山あるので、覚悟して来てください
あはは。77歳の書くメールとは思えん。可愛い

「78」のロウソクの灯を照れくさそうに吹き消したあと、
ひとりで頑張って作ったエクセルの表を見せてくれ、「ここはもっとこうしたい」「ここに線を引けたらええんやけど」と、意欲満々

何度もやり直しを重ねつつ、1枚に1ヶ月間の体温やら血圧やらなんやらかんやらを書き込む、記録表を完成させました。
父は、印刷した2人の共同作品を満足げに、本当に嬉しそうに眺めていました。
翌日。
昨日はありがとう
誕生日にケーキで祝ってもらうなんて思ってもなかった、ありがとう。
パソコンのこと、考えた以上に完璧にできて、感激している
私だけではとてもああは上手くいかない、本当に良かったありがとう。
今も取り出しては、満足して見入っているところです。
3月22日。
自信作の記録表を携えて3クール目の入院。
CTの結果、ガン再発が確認されました。
病室から見える桜の咲き具合を知らせてくれる朝のメールが、わたしたちの日課になりました。
4月初旬。
ガンが骨に転移。
腰と足の骨に転移したため、起き上がることも歩くことも困難になりました。
どんどん食欲がなくなり、目に見えて痩せて行く父を見るのが辛かったです。
ネットでいろいろ調べるたびに悲しくて辛くて。。。
でも、震災の後で世間が大変なときに、自分がこんな個人的なことで悩んでいるということに、罪悪感のようなものを感じてしまい、誰にも話せませんでした。
父の前では泣きませんでした。
でもそれでもう、いっぱいいっぱいで。。。
母の不安までを受け止める自信がなく、母に会うことができなくなりました。
4月下旬。
眠れず、仕事もまともにできず、誰にも話せず、、、
つぶれてしまいそうなとき、相棒Nちゃんが気づいてくれました。
「もしかして、あきおパパどうかした?ブログ読んでてなんかちょっと思ってんけど。」
ひとりで溜めていた重すぎるものをやっと吐き出すことができました。
「最期、どうしたいかをちゃんと聞いたらんとあかんよ」
翌日。
もともと患っていた間質性肺炎が悪化。
母の電話を受けて駆けつけた病院。
父がベッドで酸素の管を鼻につけて、息苦しそうに眠っていました。
はじめて父の前で泣きました。
泣いて、泣いて、、、ゴミ箱がティッシュで山盛りになっちゃいました

泣きながらもいろんなことを話しました。
父はどちらかというと寡黙で、わたしは昔から超自己中のマイペース人間。
いままで、わたしたちはそれほど親密な親子ではなかったと思います。
でも、父のこの病気を介して、わたしたちはすごく仲良しになりました。
会社帰りに父の病室に寄るのが楽しくて、2人で過ごす時間が大好きでした。
食欲がないときでも、わたしが持って行くスイーツは食べてくれ、
その後、病院食を半分コして食べました。
父は必ず、食事についてくるカードにお礼を書いて食器を返却しました。
「世話をしてくれる人たちは、ちゃんと名前で呼ばないと」
と、看護師さんたちの名前を全部覚えていました。
そして、2人で作ったご自慢の記録表に、毎朝毎晩きちんと数字を書き込んでいました。
(この表は看護師さんや先生たちの間で評判になり、父が字を書けなくなってからは、看護師さんたちが代わりに書き込んでくれました。)
4月末。
父の望みを叶えるためホスピスの見学に行きました。
お医者さまとの面談の日程を決める際、早い日程を嫌がる母の意を酌んで24日にお願いしました。
父はどんどん痩せていきました。
それでも、「みんなが一生懸命世話してくれてる気持ちに少しでも応えないと」と、必死でご飯を食べる努力をしてました。
5月21日。
母から、肝臓に転移したことを知らされました。
そして、せん妄が出てきたと聞かされました。
せん妄は、肝臓の正常な機能が失われることで出てくるそうで、症状的にいうと認知症に似ています。
ガンについてネットで調べ、いろんな症状を知り、その中でわたしがいちばん恐れたのが、「父が父らしくなくなること」でした。
父はとても頭のいい人でした。
まじめで勉強家で礼儀正しく、誰かに迷惑をかけることや、「みっともなさ」を心底嫌う人でした。
それが「父らしさ」でした。
24日。
ホスピスの面談に行く前に病室に寄りました。
父は苦しげで、薬のせいで眠ってばかりいました。
面談行って来るね、と声をかけると、「うん。しっかり見てきて」と眠たげに言ってました。
25日。
母から、「せん妄がひどくなったので個室に移った」と電話を受け、病院に駆けつけました。
父は、熱の苦しさも伴ってひどい状態でした。
母が泊まる準備をしに家に戻っている間、苦しみ続ける父をただ見ているしかできませんでした。
大きな声で怒鳴られ、それが正常な意識ではないということがわかっていても、深く傷つきました。
思わずベッドから遠くに座ってしまったわたしを、父は悲しそうに見ていました。
母が戻って来た頃にやっと熱が引き始めました。
眠っている父の横で、コンビニで買って来たお蕎麦をすすっていると。
うまそうな音がするな
と、父の声がしました。
聞きなれたいつもの、わたしが知っている父の落ち着いた声でした。
母が、口元に運んであげると美味しそうに少しだけ食べました。
父は大の蕎麦好きでした。
「じゃ、お父さん、またね。」
病室を去るとき声をかけると、
「ありがとね」
いつもの父の声で送ってくれました。
26日。
午前中だけ出勤し、すぐに病室に向かいました。
わたしが到着したとき、母は一旦家に帰っていて、空港から直接来た兄だけが座っていました。
(兄は土曜日に帰国する予定でしたが、それを急遽早めて帰国していました。)
父は苦しげな息で眠り続けていました。
兄やわたしが何度か呼びかけても反応はなく、ときどきうめき声のようなものを発しました。
母が戻ってきてからも、言葉は発することはなく、
そしてそのまま逝きました。
だから、わたしが聞いた父の最後の言葉は、「ありがとね」です。
これ以上ない、最高の言葉です。
病室の片づけをしていると、あの記録表が出てきました。
余白に震える文字で
「華と作ったこの表、あと何枚使えるだろうか」
と書いてありました。
お父さん
よく頑張ったね。
楽しい時間をありがとね。
またね。
ありったけの愛を込めて。娘より。