今年もあの日がやってきましたね。

 

日本航空、123便(ボーイング747SR-100型機)は、1985年(昭和60年)8月12日、群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した。
東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期旅客便で、
伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し、油圧操縦システムを全喪失、操縦不能に陥り迷走飛行の末、午後6時56分30秒群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した。
乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人であった。

この事件の不可解な点は次の通りである。

墜落してから救助活動をはじめるのに時間がかかりすぎている

点である。

最初に現場を発見したのは米軍機である。

米軍機は墜落後まもなく現場に到着している。

救助活動に入ろうとしたところ、日本側からまったがかかったとさ
れている。

最初の、生存発見まで墜落から16時間もかかっている。

墜落原因については様々なことがいわれている。

そんなことは後回しでよい。

墜落してしまったことが、元に戻るわけがない。

まずしなくてはいけないことは、救助活動をはじめることである。

墜落現場がわからない。


馬鹿な事を言うものじゃない。

最初に現場を見た米軍機に聞け!

結局現場を特定するのに10時間以上かかるといった

失態を演じたのでした。


最初に現場に着いた、米軍機に救助活動のストップを掛けたのは

誰?


そいつがこの事件の主犯です。