歴史のウラに隠された「感染症」…そこから学べる「新型コロナ」との向き合い方
2021/6/19(土)             現代ビジネス

スペイン風邪と当時の日本
スペイン風邪が流行していた当時の日本。みなマスクをして、まるで現代の日本のようだ/photo by gettyimages



 人は皆、未来を片目で捉えながら、日々の生活を送っている。「明日は…」「来週は…」「来月は…」「1ヵ月後は…」と、それなりの予定を組んで――。

ところが、日常に組み込まれていたはずの未来が、突然、崩壊してしまうことがある。この度の新型コロナウイルスしかり、過去に人類が経験してきた伝染病しかりだ。

 ふり返れば大正7年(1918)、今日の新型コロナウイルスとも対比される、スペイン風邪が日本で大流行となった。

 当初は、日本の大正3年に勃発した第一次世界大戦の最中、ヨーロッパ戦線で発生したものだが、持ち込んだのはアメリカ兵といわれている。

 主戦場の西部戦線は塹壕(ざんごう)戦――兵士が自嘲的に「穴居人(けっきょじん)」と称した、半地下生活の前線が大部分で、この劣悪な環境で、まずは英仏連合軍に感染、敵方のドイツにも広がった。

 各国が自国民の惨状を軍事機密にしていた中で、中立国であったスペインが厖大な自国感染者数、死亡者数を公表したため、「スペイン風邪」という不名誉な呼ばれ方となった。

 第一次世界大戦は、大正7年11月のドイツの降伏(休戦条約への調印)によって終結したが、4年間つづいた戦争は戦死者約1000万人に対して、スペイン風邪の死者は世界全体で、少なくとも2000万人前後、推計では4500万人とも、1億人ともいわれ、「史上最悪のインフルエンザ」と呼ばれるに至る。

 ちなみに、アメリカ軍の戦死者は5万人、スペイン風邪の病死者は6万人以上とも伝えられた。

 「大戦終結の最大の功労者」と皮肉られたスペイン風邪は、出征兵士たちによって各々の故国へ持ちかえられ、とりわけ戦勝国で開かれた戦勝パレードなどで「感染爆発(パンデミック)」となった。蛇足ながらパンデミックとは、ギリシャ語の「パン(あまねく)」と「デモス(大衆、人々)」の合成語である。

スペイン風邪の前触れ「角力風邪」
 日本へは、インド―東南アジア―中国を経て、上陸。
このとき日本は、第一次世界大戦の戦争特需と
「大正デモクラシー」に浮かれていた。

 ふり返れば4月、スペイン風邪の前触れ、「角力(すもう)風邪」が日本へ上陸していた。日本統治下の台湾を巡業していた大相撲の力士たちが、次々と感染したのである。

 5月には海軍将兵から陸軍へと広がり、この頃は「軍陣病」と名を変えている。
6月に「西班牙(スペイン)に奇病流行」(「大阪毎日新聞」6月6日付)と報じられたが、コロナ禍における昨年3月頃のように、日本はまだ対岸の火事、よそ事と決め込んでいた。

 その日本が一変して慌て始めたのが、9月後半からのこと。岐阜の紡績会社の女工たちが、相次いで「スペイン風邪」に倒れたのである。

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「東京府内丈けでも十月二十八日以来平均毎日二百名以上の死者を出し今は稍(やや)下火になって居るが初発以来の死亡者は四千人を以て数へる」(朝日新聞・大正7年12月25日付)
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 同紙では、坂本龍馬の思い出を語った土方久元伯爵や、評論家・劇作家の島村抱月も、スペイン風邪で故人となったことを報じていた。

 蛇足ながら、10月には当時の首相・原敬も罹患(りかん)し、島村抱月の死を悲しんで女優の松井須磨子が後追い自殺したのは、11月5日のことである。第一波の猛威では、当時の日本の人口の38%にあたる2516万人が罹患し、26.6万人が死者となった。

 翌年にも「第二波」(後流行)があり、こちらの方は感染者数は少なかったものの、致死率は高まっていた。「第二波」の最大の被害地域は大阪で、日に300人が死者となり、東京も再び大正9年1月下旬から2月にかけて猛威をふるい、「十九日三百三十七名死す」(「時事新報」1月21日付)と、一つの病いで1日に亡くなった人数を前代未聞と報じた。

この頃、スペイン風邪のワクチンはおろか、ウイルスを肉眼で観察できる電子顕微鏡はない。発明されたのは、昭和6年(1931)以降である(昭和8年に製作された透過型電子顕微鏡〈TEM〉、昭和12年に製作された走査型電子顕微鏡〈SEM〉が高倍率の観察を可能にした)。遺伝子が解明されたのは、さらに平成9年(1997)のこと。

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災の直後にも、伝染病(赤痢・腸チフス)が大流行した。

 ひるがえってみれば、14世紀、17世紀と世界を襲ったペストにせよ、16世紀の大航海時代にヨーロッパと新大陸アメリカで交換された天然痘と梅毒にしても、前述のスペイン風邪、近年のSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)にしても、世界へと飛び火したウイルスを終息させたのは、時間の経過であり、完全治癒ではなかった。

 なるほど、この度の"コロナ”は、グローバル化の中で速く、広く地域に感染した。そのわりには、ワクチンの開発・投与が速かった。しかし感染症は、歴史的にみて根絶することは不可能といってよい。共存するしかないのだ。と同時に、感染前の状況に戻ることはない、と知るべきである。

 「早く元の生活に――」と思うのは、幻想にすぎない。

 時間が経過したように、人々の生活も目にみえて変化している。

人類の生存をかけた四つの課題
新型コロナウイルス

 医療の専門家は、くり返し?共生”を説いている。歴史学が語りたいのは、この惨状を終息後にどうつなげるのか、である。災禍の中で考えたこと、体験したことを、我々は決して忘れてはならない。

 歴史学的にみると、人類は生存をかけた四つの課題と闘いつつ、長い?時”を刻んで来たように思う。飢餓・戦争・自然災害・病原体の四つである。

 経済成長は飢餓の克服から生まれ、戦争の中から「デモス」による政治=デモクラシー(自由民主主義)をはぐくんだ。自然との闘いが科学技術を生み出したならば、病原体との闘いは医学の発展を向上させてきたといえよう。

 14世紀にパンデミックを起こし、「黒死病」と呼ばれたペストが、ルネサンスを呼びおこした、との論旨もある。中世の西ヨーロッパでは、あまりに多くの、尊い、神に対しては敬虔(けいけん)であった人々の生命が失われすぎた。しかも人口の3分の1までも。人々は神の存在を疑った。

 「どうせ死ぬならば、好きに……」

 と戒律を破り、刹那的な生き方をした人々の中から、ルネサンスが発展したのだという。

 長所が短所と共にあるならば、われわれはこの度の新型コロナウイルスにも、改めて学ぶべきである。

 災禍はまた、やって来る。しかも、同じ顔ではない違う顔で。「人事を尽くして天命を待つ」――願わくば、可能な限り泰然自若(じじゃく)と、していたい。