「様々な病気の元は、”下水道の不備”にある。」

日本の自慢をするつもりはないが、

日本の水道事業は、明治20年(1887年)に横浜で初めて近代水道が
布設されたことから始まりました。
これは当時、外国の窓口であった港湾都市を中心に、海外から持ち
込まれる”コレラ”などの水を介して広がる伝染病が蔓延するのを
防ぐことを目的としたものでした。


下水道の歴史

世界で最も古い下水道は、今から約4000年ほど前に古代インド
の都市(モヘンジョ・ダロ)で作られたものだとされています。
ここでつくられた下水道はレンガでできており、各戸で使い終わっ
た水を集めて、川に流す役目をしていました。その後、地中海沿岸
の都市や古代エジプト,古代ローマなどで下水道が作られました。
 
中世にはいると、ヨーロッパでは,し尿を農作物の肥料として用い
るようになり、農耕の発展をもたらしました。
その一方で、都市人口の増加に伴い、汚物が街路に投棄されるよう
になり、都市の衛生状態は悪化し、”ペスト”等の伝染病が流行しまし
た。
が、下水道施設の本格的整備には至りませんでした。

産業革命以後、人々がさらに都市に集中するようになると、し尿の
処理に困り、し尿が道路や庭に投げ捨てられるようになったため、
都市は深刻な不衛生状態になり、19世紀には各地で”コレラ”などの伝染病が流行しました。
 そこで、イギリスの首都ロンドンでは、1855年から下水道工
事に着手し、それまでテームズ川に直接流していた下水を、下水道
を通して、市街地より下流で流すようにしました。また、ヨーロッ
パ各国やアメリカなどでも、下水道工事に着手するようになりまし
た。
 その後、微生物を利用した下水処理法が開発され、汚れた水を清
浄にしてから河川などに流すことができるようになりました。

日本では、昔からし尿を農作物の肥料として用いており、ヨーロッ
パのように、し尿を直接川に流したり、道路に捨てるということは
あまりありませんでした。
 しかし、明治時代になって、人々が東京などの都市に集まるよう
になると、大雨によって家が水に浸かったり、低地に流れないで溜
まったままの汚水が原因で、伝染病がはやったりするようになりま
した。そこで、明治17年(1884),日本ではじめての下水道
が東京で作られました。



本格的に下水道が整備されるようになったのは、第二次世界大戦後
、産業が急速に発展して、都市への人口の集中が進んでからのこと
です。また、産業の発展に伴い、昭和30年(1955)頃から、
工場等の排水によって河川や湖沼などの公共用水域の水質汚濁が顕
著となりました。そのため、昭和45年の下水道法の改正により、
下水道は町の中を清潔にするだけでなく、公共用水域の水質保全と
いう重要な役割を担うようになりました。

平安時代    野玄式便所(日本式水洗トイレ)が高野山にでき    
        る。
安土桃山時代    大阪城下町に下水道ができる。

明治時代

(1892~1875)    銀座大火ののち街路の下水設備ができる。
(1879)    コレラの流行
(1884~1885)    東京神田に汚水排除も含めた近代下水道ができる    

神田下水、(今も使われている)

 

(1900)    下水道法が制定される。


「大正時代」

(1922)    東京の三河島処理場運転開始。わが国最初の処理    
        場であり,散水ろ床法により処理した。
「昭和時代」
(1930)    わが国最初の活性汚泥法による処理が名古屋で始    
        まる。
(1958)    新下水道法が制定される。
(1961)    第1回全国下水道促進デー実施。(以後現在まで    
        、毎年開催)
(1963)    第一次下水道整備五箇年計画始まる。(現在は八    
        次計画実施中)
(1965)    複数の市町村にまたがって整備される流域下水道    
        工事着手。(大阪府寝屋川流域下水道)
(1970)    下水道法の一部改正(公害問題の顕著化に伴い,    
        「公共用水域の水質保全」を下水道法の目的に加    
        える。)
(1975)    農村で行われるものや自然公園などの環境を守る    
        ことを目的とした特定環境保全公共下水道事業が    
        創設される。
「平成時代」
(1993)    下水道事業実施市町村の割合が5割を突破
(1994)    下水道処理人口普及率が50%を突破


江戸時代の水道
  
東京の水道の歴史は、遠く江戸時代にさかのぼることができます。
 江戸時代の水道は上水とも呼ばれ、石や木で造られた水道管
(石樋・木樋)によって上水井戸に導かれ、人々はそこから水をくみあげて飲料水・生活用水として使用しました。
 江戸上水の起源は、天正18(1590)年、徳川家康の江戸入府時に開設された小石川上水であり、後に神田上水へと発展したと考えられています。
 その後、上水は順次拡張され、承応3(1654)年には玉川上水が建設され、さらに元禄9(1696)年までに、本所(亀有)、青山、三田、千川の各上水が整備されました。
 しかし、享保7(1722)年、神田・玉川両上水以外の4上水は
廃止され、江戸時代の後半は主に神田・玉川の2上水が江戸の暮らしを支えました。

近代水道の創設
  明治時代を迎え、江戸から東京へと変わっても水道は依然として江戸時代のままでした。
 
しかし、上水路の汚染や木樋の腐朽といった問題が生じ、また消防用水の確保という観点からも、近代水道の創設を求める声が高まりました。さらに、明治19(1886)年の”コレラ”の大流行は近代水道創設の動きに拍車をかけました。
 
こうして、明治21(1888)年、東京近代水道創設に向けて具体的な調査設計が開始されました。
 この水道は、玉川上水路を利用して多摩川の水を淀橋浄水場へ導いて沈でん、ろ過を行い、有圧鉄管により市内に給水するもので、明治31(1898)年12月1日に神田・日本橋方面に通水したのを始めとして、順次区域を拡大し、明治44(1911)年に全面的に完成しました。

 浄水場から配水できる1日当たりの水量が17万m³でスタートした東京の近代水道は、現在では1日当たり686万m³の施設能力を有する、世界有数の規模の水道に発展しました。


日本の下水道

昔の日本
日本では、昔から農業で、し尿を肥料として使っていました。

近代の下水道

明治時代になり、人々が東京などの都市に集まるようになって、
大雨などで家が水につかったり、流れずたまったままの汚水が原因で”コレラ”などの伝染病がはやりました。
そこで、明治17年(1884年)神田下水がつくられました。その後、日本最初の水再生センターとして大正11年(1922年)に三河島水再生センターができました。


現代の下水道

第二次世界大戦後、産業が発達し、人口が都市に集中するようになって下水道が本格的につくられるようになりました。工場もふえて、下水道は、川や海のよごれをふせぐという役割も持つようになりました。



日本には清掃に関する法律がある。

●汚物掃除法
汚物掃除法は要約すると、次の3点になる。
①汚物掃除の第1義務者、第2義務者を定める。
②第2義務者の第1義務者に対する監督機関及び監督方法を定める③第1義務者が義務を怠ったときの第2義務者の権限を定める。さらに、汚物を塵芥、屎尿等と定め、蒐集した汚物の処分は市の義務としたうえで、処分に伴って発生する収入は市に帰属するとした。

日本最初の廃棄物に関する法律。
1900年(明治33年)3月7日公布、1900年4月1日施行、
1930年(昭和5年)改正、1954年(昭和29年)7月1日、清掃法施行に伴い廃止。

明治33年、日本で最初の廃棄物の法律である”汚物掃除法”が成立した

背景には”感染症に対する予防対策”がある。


●清掃法
    1954年(昭和29年)7月1日    廃止。


●「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」
(1970 年に制定、現行法律)


”即ち、見えるところばかりをきれいにしても、
それは、「張子の虎」に過ぎないということです。”

中国、韓国の得意とすることです。
    






見えるところばかりをきれいにしても、「張子の虎」に過ぎない


フィリピン、マニラ市市長イスコモレノさんへ

ワクチンをそれぞれの市で買う金があるなら

その金で”下水道”完備をすることです。

それが”政治家”がやる仕事です。

国民・市民の命を守ることになるのです。

派手なことは誰でもできる。

地味なことから”コツコツ”と!