12月8日と言えば、ある程度の年配者なら知っている方は知っているはずです。

 

今では太平洋戦争と呼ばれている大東亜戦争の開戦日です。

 

日本ではこの戦争を”大東亜戦争”と呼ぶことが当時の閣議で決められています。

 

この戦争は、アメリカを牛耳る連中に、日本が窮地に追い込まれ、

 

はじめに真珠湾攻撃をさせられ、やがて敗戦に追い込まれたのです。

 

つまり、日本がアジアの盟主になられては困る、アメリカによって引き起こされた

 

と言ってもよい戦争です。

 

 

8月15日は、戦争が終結した日となっており、

 

玉音放送がラジヲから天皇の声の録音版で流されたことは多くの方が知っています。

 

これは”終戦の詔書(しょうしょ) ”に基づいたものでした。

 

 

12月8日の開戦にあたり、

 

大東亜戦争、”開戦の詔書”

 

があります。

 

それには戦争を始めるにあたり”昭和天皇”の国民をおもいやるお気持ちと

 

苦しい状況が伝わってくる”詔書”です。

 

大東亜戦争、開戦の詔書

 

「大詔を拝し奉りて」(たいしょうをはいしたてまつりて)とは、1941年(昭和16年)12月8日開戦に際し、昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて実施した戦争決意表明演説である。

 

「詔書」

天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

 御 名 御 璽

  昭和十六年十二月八日

 

 

この日から

 

今日、未来の日本の悲惨な現実が始まったとも言えるでしょう。

 

戦争をやるべきでなかった。

 

という方々もいるでしょう。

 

植民地になるよりも、戦争をして正解だったという

 

方々もいるでしょう。

 

兎に角、アメリカを牛耳る連中は何もかも研究しつくして

 

いるのです。相手が悪すぎました。

 

戦時中も国際法を守る日本と、何をやってもよいという

 

アメリカでは人間としての”民度”が違いすぎます。

 

この地球上で、一番人間らしい人種は日本人です。

 

誇りを持って子孫に伝えましょう。