朝日新聞 アジアネットワーク

     アジア関連書籍の紹介より


『伊藤博文と韓国併合』  海野福寿 青木書店 2625円

自治植民地目指した?
元老政治家       評者・佐柄木俊郎(ジャーナリスト)



「馬鹿な奴(やつ)だ」。

ハルビン駅頭で狙撃された前韓国統監の伊藤博文は

「犯人は韓国人」と聞き、虫の息でそう呻(うめ)いたという。

著者は、狙撃者安重根(アンヂュングン)との架空対話で、

伊藤にその意味を語らせる。

「君は私がいなくなれば、

日本の韓国侵略の手綱がゆるむと考えていただろう。

それは逆だ。

私のうしろには、韓国を踏み台にして大陸に攻めのぼろうとして、

うずうずしている軍人集団がいたのだよ。

(中略)彼ら軍人が併合を実行するために私を消したのだ」

韓国人にとって伊藤博文は秀吉と並ぶ「侵略国日本」のシンボルだ。日露戦争終結の一九〇五(明治三八)年、軍隊の威圧下で第二次日韓協約を調印させて韓国を保護国化し、自ら初代の統監となった「悪役」であり、その四年後に伊藤殺害を実行した安重根は、民族の恨みを晴らした「義士」に他ならない。

本書は、その伊藤のイメージを多少とも修正する点で刺激的である。首相や枢密院議長を四度も務めた元老政治家伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋(やまがたありとも)や桂太郎、寺内正毅(まさたけ)ら陸軍軍閥とはしばしば対立した。このことはよく知られているが、著者はさらに進めて、伊藤が併合には賛成しつつ、武断的な統治ではなく、国名が残り、一定の行政権・立法権を持つ「自治植民地」を目指していたと見る。支配には被支配者の内面的合意が必要であり、それを育成するのが先決、の漸進論だったというのだ。

伊藤の死を待ったかのように、事態は急展開する。

半年後には寺内が初の軍人統監に就任し、その三か月後、

一九一〇年のまさに今日、

「韓国皇帝陛下は一切の統治権を完全且(か)つ永久に

日本国皇帝陛下に譲与す」(併合条約第一条)るのだ。

歴史にイフをいっても仕方がないが、

伊藤暗殺なかりせば、昭和に至る軍国日本の足取りは

いくらか違ったものになったか、と想像できなくもない。

ちなみに著者は、安とは別に日本軍閥関係者が関与した

二重狙撃説を示唆する。

一部に根強くある主張で大変に面白いが、資料は十分でなく、

未消化の感は否めない。


うんの・ふくじゅ 31年生まれ。

明治大学名誉教授。著書に『韓国併合史の研究』など。

 

Wikipedia参考

伊藤博文の生家は百姓である。

それも貧乏百姓でその日の米にも困るぐらいであったらしい。

それが、どういう経緯かは知らないが、父が足軽の家に

養子となって入ったのである。

そのおかげで息子伊藤博文も下級武士の仲間入りが

できたのである。

よって無学であるが故、武術に没頭し、人切りになり

維新のさいには多くの暗殺に加わったようである。

その甲斐もあって、長州ファイブとやらに選ばれ

洋行し、洗脳されたのである。

明治維新をやったものは、殆どが下級武士であった。

自分らの困窮していることを棚に上げ、

江戸幕府の制度そのものが悪いせいで国全体が

困窮しているとしたのである。

下級武士は洗脳しやすいのである。

そんな者の一部が洋行し、洗脳されたものであるから、

後は勢いだけである。

広く深く物事を見ず、考えず、現状だけで行動する。

生半可、洋行したことにより得た知識が邪魔をしたのである。


ここで2024年より新10000札の肖像となる、

渋沢栄一の事に振れておこう。

渋沢栄一も同じ百姓の出である。

百姓は百姓でも大百姓で名主の家なのである。

伊藤博文とは大分違う。

農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられた。

渋沢も当時の時代の流れか、当初は尊攘派志士思考であったが

幼少の頃より、学問にいそしみ、やがて幕臣思考へと

なる。

フランス等の洋行もするが、永きに渡る学問、思考力のせいか

物事を深く考えるようになったようである。

よって明治維新以降も算術には長けていたようで、

あらゆる企業を起こすのである。

渋沢の言葉・考えとして

 ”富をなす根源は何かと言えば、

  仁義道徳。正しい道理の富でなければ、
 
  その富は完全に永続することができぬ。”


 ”事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、

  しかしてその道理にかなったやり方をすれば

  国家社会の利益となるかを考え、

  さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。

  そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、

  道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、

  余は断然自己を捨てて、

  道理のあるところに従うつもりである。”


 何度も渋沢の肖像はお札の肖像の候補にあがったが、

 髭がないので偽札作りがしやすくなるのではと、

 実現しなかったが

 1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された

 初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の

 経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。

 ちなみに、この第一銀行券を

 「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を

 使用しているのはいかがなものか」

 と韓国独自の中央銀行(後の朝鮮銀行)へと

 切り替えたのは韓国統監時代の伊藤博文である。


 ようするに伊藤と渋沢は知り合いのなかであったが、

 伊藤が、渋沢の実力に嫉妬したもののように思われる。

 
 後日、渋沢も伊藤が若いとき人切りであったと

 言っていたようである。

 

 

    よって教育とは見せかけだけのものであってはならない

 

    と思う。思考力をつける教育こそが、本当の教育のように

 

    思われる。

 

    白人・アングロサクソンは日本人の思考力の深さを無くそうと

 

    洗脳教育を必死でやってきたように思える。

 

    今の時代、渋沢氏のような方が出てくれたらと思うしだいである。