私が生まれる前、日本では明治維新以降、

 

    外国との大きな戦争が度々ありました。

 

    ペルーがアメリカより来て、武力で開国を迫ってからです。

 

    日清日露戦争

 

    第一次世界大戦

 

    第二次世界大戦(大東亜戦争)

 

    軍需産業(軍産複合体)はさぞ美味しい思いを

 

    したことでしょう。

 

    これも薩長の明治維新を成し遂げた、バカな日本の

 

    首脳部の御蔭です。???

 

 

    もちろん私はいずれの戦争も知りません。

 

    私が生まれたのは大東亜戦争終結後しばらくしてからです。

 

    私の育った家の近くに乃木邸があり、すぐ隣の家には

 

    中風で寝たきりのお年寄りがいました。

 

    この方は日清・日露どちらの大戦かはわかりませんが、

 

    中将だった方です。偉い方の割には質素な家にすまわれていました。

 

    昔の方は皆そうでした。

 

    私の亡き父の話では、隣の爺さんが現役の頃、毎朝兵隊が馬を引っ張ってきて

 

    それに乗って隊まで出かけていたそうです。

 

    ご本人ではありませんがイメージ写真として。

 

    昔の日本には普通に立派な方がいたと言います。

 

今村均中将 最終階級 大将
「名将・今村均」マッカーサーをして「真の武士道に触れた思いだった」
と言わしめた温厚で高潔な人柄

 

 

 

第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を
攻略する蘭印作戦を指揮。
最重要戦略目標であるパレンバンの油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)
9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千のイギリス軍・アメリカ軍・
オーストラリア軍を無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。
攻略の後、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の
指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放し資金や物資の援助、
諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政をよく思わない者も多く、
第8方面軍司令官としてラバウル防衛隊に左遷させられる。
日本海軍のラバウル航空隊の活動は、日本軍の航空兵力を
米海軍に実際以上に過大評価させ、西進する米軍補給路への大きな脅威と
米軍は判断した。
しかも、ラバウルは今村により要塞化が進んでいた。
今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍の補給路の封鎖を想定し、
補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い
食料の自給自足体制を整えることにし、今村自身も自ら率先して畑を
耕したという。
またアメリカ軍の空爆と上陸に備えるため強固な地下要塞を構築し、
病院、兵器や弾薬を生産する工廠も構築したのである。
このような状態を知った米軍は、攻略することで多大な損害が予想される上、
日本軍の補給路も一本化されることによりむしろ強化されるなどから、
ラバウルの占領を回避し、打撃により無力化するに留める
との決定をした。
こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が
完成しており、かつ物資も備蓄していたために、
今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に
終戦までラバウルを確保した。
日本が降伏し第二次世界大戦は終結し、今村は戦争指導者(戦犯)
として軍法会議にかけられる。
第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、
一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり
禁錮10年で判決が確定した。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による
裁判では、無罪とされた。
今村はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、
1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。
だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの
事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、
1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されている
マヌス島刑務所への入所を希望した。
妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。
その態度にマッカーサーは、
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを
希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた
思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。

その後、刑期満了で日本に帰国してからは、
東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、
戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら
回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に
用いられた。
元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、
それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかった
ことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。
その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、
それに対しても今村は騙されていると承知しても
敢えて拒みはしなかったという。  

 

 

 

岡田資(たすく)陸軍中将なる方がいた。
終戦前日本全土は米軍爆撃機の無差別爆撃を受けていた。
そのなかで、打ち落とされた米軍爆撃機の中には、落下傘で
降下する米軍兵士たちがいた。
そういう中で、東海軍管区司令官だった岡田資陸軍中将は
投下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」として
処刑した。
戦後の法廷裁判で連合軍側は「捕虜の不法処刑」ということで
岡田中将以下の責任を問う裁判が横浜の連合軍軍事裁判所に
措いて行われた。
岡田中将は連合軍の不法戦争を研究する上で、武力で負けたとしても
連合軍の数ある国際法に違反する戦争行為には法で勝てるという自信
の元に法廷闘争にかける。
結果、数多くの証拠・証人により米軍は無差別殺人爆撃を認めざるを
得なくなった。
爆撃する前に撒いたビラも危険を知らせる物ではなく、脅迫同然の
ものと認められた。
米軍は軍需施設を爆撃するものではなく、民間住宅を爆撃し、住民を
根絶やしにするものとも認めざるを得なくなった。
岡田中将は一緒に起訴された部下19名のために法廷闘争をしたのである。
米軍の投下搭乗員処刑については「全責任が自分にある」とし
部下の身をかばったのである。
よって岡田中将の目的どおりこの裁判で死刑判決となったのは
岡田中将だけであった。処刑されるに当たって家族等に『本望である』
というようなことを言ったそうである。

 

 

小川三郎中佐、日本にはこんなに誇り高い軍人がいたことを忘れてはならない
https://youtu.be/VrrvPl_kOYA

 

Wikipediaには 大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第14期卒業。
最終階級は陸軍大佐。和歌山連隊区司令官などを歴任。

だけとしか書かれていない。同姓同名の著名人が本人を含めて7人もいる。

***

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」
保守の会会長 松山昭彦のブログによりますと

二・ニ六事件で連座した中に小川三郎という熊本男児がいました。
まったく語られることのない日本男児をこのまま消すのは惜しい
と思い、ここに記しておきます。
・・・・・
 
大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、
タイのバンコクに岩畔機関(いわくろきかん)という特務機関が
できました。
その機関はインド義勇軍を組織して対インド独立工作を
進めるというのが主な任務でした。
その機関員に小川三郎という少佐が配属されてきました。
 
機関長の岩畔豪雄大佐がその考課表を見ると、
「陸士第三十八期生卒業 序列が尻から二番目 二・二六事件に
連座して停職六カ月」
という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか
一寸迷っていました。
 
ある晩、夕食のとき、機関長は単刀直入に小川少佐に聞いてみた。
「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強
しなかったんだろう」と言うと、
小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。
機関長はてっきり勉強もしてみたが不成績に終わって残念
だという風に、ごく普通の解釈をした。
ところがそうではなかった。
「私は陸士卒業の時、ぜひビリで卒業したいと努めたが、
惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念
でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」
と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられた。

大東亜戦争が進んでインドの志士チャンドラ・ボースを
ドイツから迎えてインド義勇軍の首領とし、
小川中佐はその連絡に任じていました。
当時、インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、
後退に後退を重ねていました。
サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し
小川中佐は言った。
「早く後方の国境山脈まで退られよ」
とすすめたが、何といっても聞き入れぬので、
これ以上やせ我慢すべきではないと諌めた。
するとボースは言った。
「約100名の女子義勇軍をラングーン(ヤンゴン)
に残していながら男の自分だけがどうしておめおめ後退できるか」
小川中佐はこれに応じて
「わかった。私も日本人だ。日本軍人だ。
誓って私が責任を以て女子義勇軍を救出し、
貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」
と言うなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て
「最小限4台のトラックを融通してくれ」
と頼んだ。参謀は1台もないという。
何とか工面してくれと迫ったがない袖は振れぬという。
小川中佐は厳然として
「ない袖を振るのが参謀の真の役割だ。
ある袖を振るのなら誰でもできる」
続いて言った。
「自分はインドのボース首領に誓ったのだ。
ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても
断じて救出すると。
今度の大戦はあるいは敗戦の破局を迎えるかもしれぬが、
たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。
どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼できる
とのイメージをインドの人たちに残して死にたい。
形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では
敗れておらぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。
4台のトラックはこのため何とかしてくれ」
と熱情をこめて言い放った。
 
黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何も言わず、
どこからか4台のトラックを工面してきました。
小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲化の
首都に駆けつけて無事、女子義勇軍約80名を救出し、
ボース首領の手元に連れてきました。
その後、小川中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。
 
インパール作戦はまれにみる凄惨な戦いでした。
退却の戦闘で最も困難とされるのは「しんがり部隊」の行動です。
その困難である「しんがり」を自ら買って出たのが小川でした。
退却する友軍を安全な地帯まで後退させるため、
小川は幾多の困苦欠乏に耐え、
苦心惨憺の結果、その任務を十分に果たし得たのです。
もうこれで大丈夫、と思われる地点までたどり着いた時、
小川は突然、踵(きびす)を返して、
今来た方向に逆行して、ついに消息を絶ってしまいました。
・・・・・
群がるイギリス軍に突入して行きました。
するとマンダレーから南下した英軍機械化部隊の砲撃を受けて
小川中佐は戦死しました。昭和20年4月25日。
インド義勇軍のキアニー将軍は後にこう語っています。
「私は日本人を尊敬している。日本人は他の民族と較べて
はるかに誠実で信頼できる。
この誠実さはインド人の中に伝わっている。
大切なことは戦争に勝つとか敗けるとかではない。
敗けても裏切らない誠実さだ。
インド義勇軍の将兵は小川中佐を血を分けた兄のように親しく思い、
時には徳の高い老僧のように尊敬している。
一生忘れない」と涙を流して語っていたという。
(ASEANセンター 中島慎三郎)
小川中佐と二・二六事件に連座した大蔵栄一氏は
著書『二・二六事件への挽歌』でこのように書いています。
「私達の同窓にこんな誇り高い男がいたと言うだけでも
肩身の広い感じがする。たとえ日本の陸軍が滅びても、
また熊本幼年学校はなくなっても、
こんな物語だけは後の世にぜひ残しておきたいものである。
日本の中にこんな考えの男がいたことを永久に残したいものである」
 
こういう真実こそ学校で子供達に教えてやりたいものであります。

    ここに取り上げた方たち以外にも、日本人魂を持った方が

    普通にいました。(そういう方たちを今では立派な方と

    いうようですが、普通の日本人の精神を持った方たち

    なだけです。)

    先人がご苦労なさって築いてきた日本という国を

    壊そうというのが、アメリカから指令された”吉田総理~

    安倍”の自民党です。(自民党の中にも愛国者はいるので

    しょうがどうすることもできません)

日本人よ、自覚をもって政治にも目をむけてください。

 

日本人精神を取り戻しましょう!