『バターン死の行進』
あの東京裁判のインドのパール判事さえ、
”バターン死の行進”は「実に極悪な残虐である」
と言わしめている。これはそのことに対して調べた後
の言葉ではなく、ただ世間一般に言われていることに
対してだとおもわれる。
1942年3月12日に極東米陸軍司令官のマッカーサーは
マニラ湾のコレヒドール要塞から家族と側近を連れて
魚雷艇に乗って脱出します。
この時「アイシャルリターン(私は戻ってくる)」と
言った言葉は有名です。
その2年後には戻ってきて比島の日本軍を攻撃しています
ので不屈の話のようにいわれていますが、それは戦後の
宣伝と思われます。
10万もの将兵を置いてきぼりにしたのです。
また、戻ってきても日本軍を降伏させるに至っていないのです。
マッカーサーが脱出したのは大統領命令によるものですが、
その前にマッカーサーはフィリピン政府から50万ドル私的に
着服しており、米国内でもかなりの反感がありました。
4月14日のコレヒドール砲撃戦で大方決着がつき、
日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施。
6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていた
ウェーンライト中将が降伏を申し入れフィリピン戦は
終了します。
既に米軍はこのとき食料が欠乏し、
マラリア、デング熱や赤痢が蔓延している状態でした。
(日本軍も同様)
「ダグアウト・タグ、隠れてないで出ておいで
・・・大統領に知らせておくれ・・・兵隊たちは飢え死にしそうだよ
・・・ジャップは三人・・・おれたちは十万、
大将が逃げたから飢え死になのさ」米軍の捕虜が歌った歌です。
タグはマッカーサーのことです。
米軍は十万、日本軍は三万です。投降する米兵のあまりの多さに
従軍作家の火野葦平さんは驚いています。
「私は捕虜の群をながめているうちに、不思議な怒りのようなものが、
胸に湧いてくるのを覚えた。実はこんなに米兵が居るということは、
すこし思いがけぬことであった。
それだけの米兵がいながら、なぜ戦わないのか。」
捕虜の世話をした日本兵も米兵の多さに閉口して、
米兵が近寄ってきても「勝手にしろ」と言って相手にするのも疲れた
と言っています。
このコレヒドールをはじめバターン半島で投降した
米兵は83,000人といわれ日本側の予想25,000を大きく
上回ってしまいました。
収容所への移送に必要なトラックが足らず鉄道駅までの
60キロを徒歩で移動しました。
食料も不足しており、マラリアにかかった傷病兵は途中で
倒れて亡くなりました。
もし、これを非難するなら誰を非難すべきかは明らかだ
と思います。
マッカーサーは自己責任回避のために日本軍による
残虐行為というプロパガンダをつくったのです。
そしてそれを戦後のマニラ法廷にぶつけます。
(本間雅晴中将、河根良賢少将を処刑)
これらが「バターン半島死の行進」の真実ですが、
現在では日本の外務大臣が謝罪するなどやっています。
明らかなウソ宣伝に謝罪するバカがどこの世界にいようか。
それを
第二次大戦中、日本軍は
アメリカ軍・フィリピン軍の捕虜を
収容所までの約80キロを歩かせた。
その際、多数の捕虜が死亡したとされる。
これには日本政府が公式に謝罪しているがバカな話だ。
「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、
マニラ裁判で死刑になっている。
でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって
歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。
ここで重要なのは、フィリピン戦でマッカーサー軍は
本間軍に破れており、マッカーサーは命からがら
オーストラリアに逃げている。これは「復讐」である。
《渡部昇一 「自ら国を潰すのか」》
渡部昇一(他著書「決定版人物日本史」) より
自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、
いきなりその統制下に入った8万の捕虜に十分な食糧
を与えられる余裕があるはずはないし、まして
これだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持って
いなかった。
食うや食わずでひたすら歩くのが日本軍の常であったため、
これを虐待だとは思わなかった。
《若槻泰雄 「日本の戦争責任」》
(他著書「『在中二世』が見た日中戦争」)より
敵の大将マッカーサーはさっさと逃げ出し、
残った7万将兵も殆ど消耗なしで手を上げた。
そんな大人数を運ぶトラックなんて持ち合わせが
あるでなし。
で、彼らを歩かせた。1泊2日で80キロの行程だ。
西村知美だって日テレの「24時間100キロマラソン」を
走っている。
大の米兵がそうしんどがる距離ではないと思う。
笹幸恵女史が「バターン死の行進」を歩いてみた。
「風邪気味でも歩けた」と文芸春秋で書いている。
バターンでは休息もなかった、休めば日本兵が
銃把で殴りつけた、彼らは疲労で倒れた捕虜を
容赦なく殺した、という。
日本軍はそんな振る舞いはしないし、だいたい80キロを
徹夜で歩いたわけでもない。
一泊している。
そんなゆるい”死”の行進があるだろうか。
真の死の行軍
そう呼べるのは、例えばチェロキー・インディアン1万5千人を
ジョージアからオクラホマまで2千キロを歩かせた
ケースくらいではなかろうか。
冬をまたぐ半年の過酷な旅で、死者は8千人を数えた。
米国ではこれを「Trail of Tears」(涙の旅路)と呼ぶ。
《高山正之 週刊新潮2008/7/3》より
マッカーサーは戦局不利と見た3月中旬、コレヒドール
から魚雷艇を利用してミンダナオ島へ逃げてしまった。
さらにそこから飛行機でオーストラリアへ逃走している。
“I shall return”という有名な言葉を残しているが、
ともかくも将軍が真っ先に逃げ出してしまったのである。
フィリピンのケソン大統領も一緒に逃げている。
そのあといわゆる「バターン死の行進」になる。
半島の南端にあるマリベレスから後方の
サンフェルナンドまでの112キロを米比軍の捕虜に
歩かせたら、2千人以上の死者が出たという出来事である。
しかし考えてみるに、
前年12月のマニラ陥落から4月11日の降伏までの間に、
長い期間がある。
この間、米比軍は食糧不足にあえいでいたのだから、
わずか100キロ余り行進させられただけで倒れて
しまったのは、
基本的にはコレヒドールの要塞に立てこもるという
「オレンジ計画」にのっとった作戦の失敗、というべき
ではないだろうか。
アメリカ軍が食糧不足で体力を失っていたのだから。
また、飢えとマラリアで苦しんでいる傷病兵を
歩かせたために2千3百余人の兵が死んだ、
ということになっているが、その最大の原因は
、日本軍・米比軍ともに死闘を演じて体力を消耗し
きっていた直後のためだと思う。
《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封2」》 より
***
「マニラ大虐殺」
マニラ戦の実像と記憶
Web公開版(2016年1月26日公開)
中野 聡 (一橋大学大学院社会学研究科)
第2次世界大戦末期の1944年10月20日、米軍は
レイテ島に上陸して、1942年初頭以来、日本軍の
占領下におかれていた米(自治領)植民地フィリピン
における日米決戦が始まった。
翌1945年1月4日、米軍はルソン島北西部の
リンガエン湾に上陸、ただちに南下して首都マニラ
をめざした。
一方、日本軍は、1944年10月に陸軍第14方面軍(
比島派遣軍)司令官に着任した山下奉文大将が、

陸軍主力をマニラから待避させ北部ルソンの
高原都市バギオに「転進」する一方、
第8師団の横山静雄陸軍中将の指揮のもとに
「振武集団」を編制して、マニラ東方の山間部
での持久戦をはかるために「マニラ東方拠点」の
構築を急ぎ、マニラ市内にはマニラ海軍防衛隊
(司令官・岩淵三次少将)および幾つかの陸軍部隊が
残置された。
米軍は日本軍の予想をはるかに超える速度で進撃し、
2月3日、マニラ市を南北に分かつパシグ河北岸側の、
米英民間人が抑留されていたサント・トーマス
大学収容所を急襲包囲し、収容所を守備する日本軍部隊
と交渉の末、3500名あまりの収容者全員を無血解放した。
その後の戦闘で日米双方が民間人の生命を一切顧慮
しなかったのとはあまりに対照的な
この出来事から始まったのが、いわゆる「マニラ戦」である。
パシグ河南岸の、スペイン時代の城塞に囲まれた
旧市街イントラムーロスとその周辺の官庁街、
さらに南側のマニラ湾に面した中心街エルミタと
その南に隣接するマラテ両街区は、マニラ戦の
もっとも悲惨な舞台となった。
マニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、これらの
地区の官庁・病院などの建物や民家を陣地化して
徹底抗戦をはかった。
この過程で――背後の敵となる恐れがあると見なした
――住民を日本軍は大量に殺戮した。
さらに米軍が完全に包囲するなか、
イントラムーロス城内では成人男性の大多数が
日本軍により逮捕拘留・殺害され、
中立国スペイン国籍の聖職者・民間人も虐殺された。
エルミタ・マラテ地区でも住民が日本軍の
銃剣や機銃掃射で殺戮され続け、
これら3地区全てにおいて婦女子が組織的に
強姦された。
これに対して第37歩兵師団を中心とする米軍は、
トーチカや建物からの狙撃による兵員の損害を
最小限に抑えるために重砲火による事実上の
無差別砲撃で街区を次々と破壊した。
近年の戦史研究は、
民間被害の6割を日本軍による殺戮、4割を米軍の
重砲火による死亡と推定している。
戦いは日本兵が完全に掃討されるまで4週間に
わたって続き、アジアでは最大の、
第2次世界大戦全体でもスターリングラード、
ベルリン、ワルシャワに次ぐと言われる大規模な
市街戦によって、マニラは文字通り灰燼に帰した。
米軍記録によれば、日本軍はほぼ全滅
(1万6665名の遺体を確認)、
米軍戦死者は1010名、負傷5565名であった。
しかし、最大の犠牲者はマニラ市民であった。
各所で住民は食糧と水がまったく欠乏する状態で
日米の十字砲火の間を逃げまどった。
民間人犠牲者の総数は約10万人に達したとされる。
マニラ戦の実像
「マニラの残虐」
マニラ戦は、民間人を大量虐殺するなどの
日本軍による戦争犯罪の舞台となり、
それが極東国際軍事裁判をはじめとする戦犯裁判で
断罪された点で南京事件(1937年)と共通点がある。
南京事件では松井石根陸軍大将が東京裁判で死刑を
宣告され(1948年12月執行)、
マニラ戦では山下奉文陸軍大将が米軍事法廷マニラ裁判
で死刑を宣告された(1946年2月執行。
振武集団司令官の横山静雄中将も死刑を宣告されたが
減刑されて後に出所した)。
南京事件は長年にわたって「まぼろし」説や
虐殺の犠牲者数あるいはアイリス・チャン(Iris Chang)の
『南京大虐殺(Rape of Nanking)』(1997年)の評価などを
めぐって論争が絶えず、日中「歴史問題」摩擦の火種
としても注目を浴び続けている。
それゆえに事件は広くその存在が知られている。
これに対してマニラ戦は、「まぼろし」説も語られない
代わりに、その記憶は国際社会とりわけ日本社会に
おいて完全に忘却されてしまった。
しかし、かつてマニラ戦は太平洋戦争における日本軍の
戦争犯罪の頂点として、南京事件とならんで
糾弾された事件だったのである。
連合国占領軍司令部GHQが日本国民にマニラ戦の
残虐行為の事実を周知させる機会を逃さなかった
一例として、
1949年、長崎の被爆体験記録として知られる
永井隆著『長崎の鐘』の出版をあげることができる。
このとき、GHQはマニラにおける日本軍の残虐行為を
告発した『マニラの悲劇』
(連合軍総司令部諜報課編、写真七葉)の併載を命じ、
『長崎の鐘』の読者は同時にマニラ残虐行為の告発の
読者ともなった。
日本軍とマニラ戦
それでは10万人にのぼる民間人の大量死や日本軍の
残虐行為は、なぜ避けられなかったのだろうか。
この問いを念頭におきながら、日米両軍にとっての
マニラ戦の意味を検討しておこう。
マニラ戦の歴史像にある意味で決定的な影響を
与えてきたのが、山下奉文の戦犯裁判であった。
マニラ戦での残虐行為をめぐって司令官責任が
追及された同裁判をめぐっては、山下自身はすでに
バギオに在ってマニラ戦を直接現場で指揮した
わけではなかったこと、山下の人柄を軍人・指導者
として慕う者が多かったことから、報復的政治裁判
だという批判や、山下に対する同情論が裁判当時
から根強かった。
とくに米軍側で山下の弁護人をつとめた
フランク・リール(A. Frank Reel)は、
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー
(Douglas MacArthur)の影響力のもとで裁判が
政治化したことを鋭く批判する著書を出版して
山下無罪論を展開し、同書は
サンフランシスコ平和条約が結ばれて
連合国の日本占領が終わるやただちに翻訳出版され、
大きな反響を呼んだ。
フランク・リールの山下無罪論は、
もちろん残虐行為・戦争犯罪それ自体の
被害事実を否定するものではない。
しかしリールは、山下がマニラ戦に関しては
責任がないことを強調し、山下にはマニラを
防衛する意思がなく、ごくわずかの部隊を
除いて陸軍をマニラ市内から撤退させていたとして、
「マニラ戦闘の当時、市にはほんの少数の
残留陸軍部隊がいたにすぎない
・・・マニラの残虐行為は海軍部隊によって行われた
ことについては疑いがなく
・・・これらの兵士が、山下大将の『指揮下』に
あったと主張することはできない」
と主張したのである。
以来、山下は、責任のない他所の残虐行為の
責任を問われて処刑された「悲劇の将軍」
として語られる一方、マニラ戦のほぼ全責任は
陸軍を無視して独断専行でマニラ死守をはかった
海軍部隊(にわかつくりの海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊実質兵力10,000)
と、その司令官・岩淵三次海軍少将(マニラ大虐殺の後、手榴弾で自決)
*写真あり
にあるという見方がひとり歩きして、アメリカ、フィリピンのマニラ戦
責任論にも大きな影響を与えてきた。
尚、マニラ戦における日本軍の残虐行為は
マニラ、エルミタ、ベイビューホテルで行われ、
そこに逃げ込んでいたフィリピン人等の
若い女性を多数強姦するに及んだのである。
尚、他国の軍隊のように強姦後殺すようなことはせず
開放した為に、彼女らの証言を得ることができたのが
せめてもの救いである。
ただし、戦時下の為、男子に関してはゲリラになる
恐れがあるので多くの命が奪われたようである。
戦争犯罪と言う点に対しては「バターン死の行進」より
こちらを重視する必要がありそうである。
またこのとき山下奉文大将はマニラに
いなかったにもかかわらず
マニラ法廷でマニラ大虐殺の責任等で死刑の判決を受ける。
***
また、マニラ大虐殺については こういう見方もあるようです。
涅槃までの14万歩!ハッピーリタイアできない
100kmウォーカー より
マニラ市街戦
1945年2月から3月におこったマニラ市街戦は
太平洋戦争最大の市街戦である。
市街戦の規模も大きいがマニラ市民10万人以上が
主に日本軍により虐殺されたとされる闘いでもある。
果たして日本軍が中心となりこれだけの虐殺が
できたのだろうか?


写真 破壊されたマニラ市街地
私には日本軍が攻勢をかけたた1937年の
「南京虐殺?」、日本軍が防御にまわった
1945年の「マニラ市街戦」、同じく1945年
「沖縄住民虐殺」にはある共通点がある
ように思えてくる。
いずれも一般的には住民虐殺に日本軍が
積極的に関与しているとされている点である。
ここではマニラ市街戦について考えてみたい。
1945年1月日本軍が3年前に占領していた
ルソン島に米軍が大挙上陸しマニラ市で
日本軍対米軍(比ゲリラ含む)の間で
激しい市街戦が行なわれた。
市街戦での死者の総数は12万人以上とされ、
内訳はマニラ市民約10万人以上、
日本軍約1万人以上
米軍約1020人前後とされている。
日本軍の総大将山下将軍はマニラ市を
オープン(非武装)都市への準備をし20万もの
日本軍をマニラ市から退去させてルソン島内陸部に
立て籠もった。
しかし大本営や海軍側の基地港湾要員や栗田艦隊の
生残り水兵らで混成されたされた海軍陸戦隊
「マニラ海軍防衛隊」(以下「マ海防」と書く、
指揮官・岩淵三次海軍少将)1万人と
野口勝三陸軍大佐の指揮する4千人の
合計1万4千名の日本軍は山下大将の命令に従わず
マニラ市に立て籠もった。
どうも日本海軍の陸戦隊は守備拠点から撤退できない
不文律が存在していたようだし、市街戦で当然
おこるであろう戦闘による住民被害を考慮
しなかったようだ。
日本海軍は懲罰的な人事として軍艦が沈む時に
脱出した艦長をその後、死地に投じたり遠方に
流す悪癖があった。
岩淵少将は2年半前のガダルカナル島争奪戦に
おける第三次ソロモン海戦において
戦艦霧島艦長として米新型戦艦サウスダコタ、ワシントトン
の2戦艦と一対二の砲撃戦を繰りひろげた
日本海軍では唯一の戦艦の艦長である。
艦齢も古く防御力も劣りレーダーも装備してない
戦艦霧島はサウスダコタに探照灯を照射し命中弾数発?
を与え、サウスダコタの上部構造物を破壊し遁走させたものの
残る一艦ワシントンからのレーダー照準射撃をまともに
受け霧島を沈没させた事が人事の汚点となったようだ。
日本海軍でただ一人、米新戦艦と闘い抜いた大きな
経験値を持つ老練な艦長を艦を見捨て(生還した)たから
とマニラ防衛隊の指揮官として不慣れな陸戦の指揮官に
起用した日本海軍の人事については考えさせられる点が多い。
岩淵少将は2月26日にマニラ市内にて自決するが
部下には徹底抗戦を中止しその時点で生き残っていた
マ海防隊員にはマニラ市からの脱出を命じている。
少し似たケースミッドウェーで敗者となった
南雲中将も日本軍の死守すべきサイパン島の名目的な
指揮官とされたが最後は玉砕した。
1945年1月ルソン島に上陸した米軍は
マニラ市奪回を最優先するが、日本海軍マ海防が頑強に
市内に立て籠もっている事に手を焼き徹底的な砲爆撃を加えた。
マ海防はマニラ市からの脱出は困難であり自暴自棄になって
マニラ市民を虐殺したとされているがマニラ市に
立て籠もったマ海防や陸軍部隊の3分の一は戦闘後に
マニラ市から脱出しており、全て日本軍による虐殺と
みるのはかなり無理がある。
マニラ市民(当時の人口70万人)の大半はたしかに
日本軍を憎み、米軍側に協力的であった。
又多数のフィリピン人ゲリラ部隊(米式装備)も米軍接近前より
マニラ市の日本軍と戦っていた。
日本軍から見れば多くのマニラ市民は米軍の
スパイや協力者と映ったに違いない。
普通首都クラスの大都市の市街戦になるとビル等の
建物をひとつひとつ破壊攻略するので時間がかかる。
米軍は日本軍の反撃、特に小銃狙撃を恐れ、
又マッカーサーの個人的野心の観点からも
マニラ市攻略を急ぎ日本軍の小火器圏外から
大規模かつ過剰な砲爆撃を行なった。
尚、マニラ市のオープン化をめざしていた
日本軍(陸軍)は米軍捕虜の立て籠もる捕虜収容所も
解放しようとしたが米軍捕虜(捕虜収容者数約1万人)から
食料自給ができないからと収容所管理を逆要望されたり
もしている。
脱出不可能で混乱した日本軍は何故1万といわれる捕虜を
殺害しなかったのか?
日本軍は殺そうと思えば簡単に殺害できる米比人捕虜を
殺さずマニラ市民ばかりを狙って殺そうとしていたのか
との疑問が残る。
マニラ市民は米軍に率先して日本軍と闘い、
後から米軍による解放を期待したが米軍は日本軍にも
マニラ市民にも平等に沖縄戦と同様に鉄の暴風を見舞ったのだ。
マニラ市占領後、其の余りの惨状に驚愕した
マッカーサー将軍は今後の自身の昇進に不利と考え、
終戦半年前からマニラ大虐殺のスケープゴートに
山下大将を選考していた。
山下大将は終戦後
「「私は知らなかった。しかし、私に責任がないとは言わない」
と潔く1946年2月東京裁判開廷より早く
現地で囚人服のまま刑死に処されられる。
マッカーサーは戦後も日本進駐軍の最高責任者に君臨し
時期大統領選も視野に入れており米陸軍公刊戦史の
自分の戦った部分のいち早い刊行を部下や関係者に促した。
米陸軍公刊戦史は全77巻で内太平洋戦域関係の11巻は
1949年から公刊されていくがマッカーサー自身が
一番成果をあげその功績を待望していたはずの第10巻
「フィリピンでの勝利」は何故か遅れに遅れ刊行は
1963年であった。
(マッカーサー元帥は1951年退役、1964年に死亡)
それほど米国にとってもマニラ市街戦(住民虐殺)は
タブーとされたのではないだろうか。
もしかするとマッカーサー自身が引退後は自身の不名誉と
考え公刊を遅らせるように動いたかも知れないし
戦後の米比関係に水を注さないよう米国の誰かが故意に
公刊を遅らせたと私は想像する。
マニラ市街戦は米軍主犯説という視点にたてば
沖縄戦での住民虐殺は日本軍より侵攻した米軍が主犯と
なってくるのではなかろうか?
立て籠もった日本軍と火砲や爆撃で攻め続けた米軍
とでは総合火力が桁違いに違うのである。
私は全くマ海防を中心とした日本軍がマニラ市民を
全く虐殺しなかったとは思わない。
しかし、死者数の数字はマニラ市街戦での死者数は米軍1020人、
日本軍約1万人、マニラ市民10万人以上という数字を
どう理解すればいいだろうか。
”バターン死の行進”はマッカーサーによるプロパガンダである
とするのが、今の状況のようであるが、”マニラ大虐殺”は
もう少し調べる必要がありそうです。
