JAL123便墜落に関してここのところ記事を書いています。

    私の記事の文章力か、あまり読まれている方がいないのか

    反応が殆どないことに一抹の寂しさを感じます。

    日本人のとくせいでしょうか。

    あまりに忘れっぽいことです。

    それともご自身に関係ないことは触れずに置こうと言う気持ちの

    為でしょうか。

    飛行機にお世話になることが一般の方より多いはずの移住暮らし

    のはずですが、全く他人事です。

    幸いなことに しばらく航空機事故の大きいものは起きていませ

    んが、忘れた頃に災いはやってくると言います。

    飛行機事故・事件にあう確立は在日本の方たちより遥かに

    大きいはずです。JAL123便の墜落の原因を突きとめたからと

    言って安全性が増すわけではありませんが、この事故は世界的

    に見ても大きな事故・事件です。少しでも真相に近い部分を

    知ることにより、日本の体質・世界の体質を掴んでおく必要が

    誰氏にもあるのではないでしょうか?

    今回からは参考記事、私見をまじえながら書いていくことにします。


JAL123便墜落事故

JAL123便 パイロットの苦闘(総集編)オリジナルDVD60分



日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日に、
東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46
(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、18時56分ころに群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事件・事故である。


事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が
貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重り
として、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの
放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き
起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた
陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで
待機するよう命令されたという。

(これはいい訳でありとても本当の事とは思えない。)


乗客として乗っていた川上慶子さんの証言(角田四郎著「疑惑」早稲田 
出版社より引用) 

気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ 
聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブ 
ラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きて 
いる」と思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返 
事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバ 
タバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首 
がヌルヌルしていて「血だな」と思った。父は私の右わきから下半身に 
乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、 
「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうし 
ようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しか 
った。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言 
っているうち、父はそのまま動かなくなった。咲子に聞くと「お母ちゃ 
んは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手 
をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃ 
べった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽に 
なるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれで 
も「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「 
大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけ 
ど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮ら 
そう」と答えた。 

突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。 
一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻った 
りした。ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆 
う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きて 
いるんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力 
した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で 
押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどる 
と自分の右手だと分かった。顔の上の部品の一部をつかんで横からは 
い出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間 
が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばっ 
た。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言 
われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている 
人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄 
って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「 
男の子だ!」と言われた。


当時 突然 垂直尾翼が大破し 不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました。
そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信が
 されていて レーダーでも捕捉されています。
 そして 空中で ナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機
が目撃されています) とうとう 御巣鷹山に墜落。
墜落直後は 生存者はかなりいて 事故を目撃した米軍のC-130から 
日米に緊急信号がはいり アメリカ海軍の救難ヘリが 御巣鷹山に到着し 救助活動に入りました。

 
そのときの様子を 生存者の客室乗務員(非番で私服)の落合さんは 
こう述懐しています。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。
ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。
まわりの全体からです。 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。
あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。
それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、
振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。
帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」
と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。 
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
しかし、男の子や若い女の人の声は、もう
聞こえてはいませんでした。///

 撤退命令がでたため 地上に降りかけていた救助ヘリの乗員も
 再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていった
 のです。そして C?130は横田基地に帰還するのです
 このヘリコプターの件では 当時のヘリコプター乗員が 
 インタビューで確認しています(なぜか 日米政府は 知らぬ存ぜぬ
 ノーコメント。)
 1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合
 による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。
 なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、救助に向かわなかった
 のでしょうか。
 
 不可解なのは 突然 救助を中止して引き上げたことです。
 しかも 位置をレーダーで逐一把握してたはずなのに 10時間以上も 
 墜落場所は 不明と発表しつづけたことです。
 彼らは 故意に見捨てられ ひとり そして一人と 死んでゆきました。
 
 そして 約1時間後に、上野村三つ岐というところ(御巣鷹付近)に
 集結した ナゾの自衛隊のチームの ナゾの10時間の行動。
 かれらは なにをしていたのか。

 墜落現場に 正式な救援チームが到着したのは 墜落から 14時間も
 たってからでした。たすかったのは 女性ばかり4名。
 特に 事故原因を知る機長ほか乗員のほとんどは 死体さえ発見されず
 非番で""私服だった""落合さんだけが 乗員では
 唯一の生存者。

 この日本政府のナゾだらけの行動は ""垂直尾翼の大破の原因""に   因しここに やっと[巡航ミサイル]のカゲがでてくるのです。
 墜落当時 1985年8月12日に護衛艦「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で
 試運航中であったのですが、当然、ミサイルの発射実験をやっている   はずです。


 しかし、爆薬の入っていない巡航ミサイルが「まつゆき」から打ち上げら  れたのか、内陸部の車両発射台から打ち上げられたのか、もしくは航   空機から発射されたのかは、わかっていないのです。
 巡航ミサイルであれば、自衛隊の東富士演習場から打ち上げられ、
 富士山を迂回して、相模湾上空でJAL123便に遭遇
 するということも、十分考えられるのです。 
 
 JAL123便の垂直尾翼に演習用巡航ミサイルSSM?1がぶつかった
 のを知って機長はその7秒後に「スコーク77」を発信。
 欠けた垂直尾翼に巡航ミサイルの衝突痕跡――オレンジ色の塗料の   跡があり
 このままでは 事実が国民にわかり政府 自衛隊は崩壊。

(このことは推測の域を出ません)
  
 加藤●一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の
 上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、
 次の日の朝まで放置したのではないか という疑惑がもたれています。
 彼が 不運をかこつのは このときのたたり?

 ながながとなりましたが [巡航ミサイル] その 調査は 世界をめぐり
 最後は 日本の御巣鷹山へと・・・ 合掌


日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺!

JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を
急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースの
初報では発表してましたからね。

(出何処のはっきりしないものや、推測をNHKが

テレビのテロップで流すことは考えられません。)


実際の事故機墜落現場は早くからわかっていたが、

訓練中の標的機(オレンジ色)が123便にぶつかった残骸の回収を優先

JAL123軍事破壊・軍事焼却の背景は中曽根康弘軍事指揮にあり

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。 
ナゾの自衛隊のチームの ナゾの10時間の行動。かれらは なにをしていたのか。

狭い空間に三人もいて高浜(機長)さんだけ木っ端微塵になったのはなぜですか 。
コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。
それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

当時 突然 垂直尾翼が大破し 不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました(自衛隊のマッチ・ポンプ?)。そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信がされていて レーダーでも
捕捉されています。
そして 空中で ナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機が目撃されています) とうとう 御巣鷹山に墜落。

「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、上官命令に
逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。
軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。
御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。

自衛隊員の告白 本当の話です。事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味
だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、
本当は○○隊が○落させたんだよ。
当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、
行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ
。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。

実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、
また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺! JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ
自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表

これもまた鋭い資料だ!!!

]2007年08月27日
●衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)
 JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に
気がついていたのではないかと思われるフシがあります。

 JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。
そのまま順調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、
右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。
富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行する
パイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。
 そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。
あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。
「危ない!衝突する!」
それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた
小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに
収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、
唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。

イメージ 2
 乗客、小川哲氏が撮ったと思われる、ミサイルらしき写真

(抜粋引用終了)

彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。

大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、

上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。

助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された 
墜落は単なる事故ではなく、驚天動地、世界規模の大事件だった!

8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、
長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。
生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。
およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。
この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。
片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、
また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。
後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。

しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。
大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターが
ホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は
救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!
人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についての
ウェブサイトを紹介する。

「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの」

このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、
2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を
依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。
車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の
運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた。

「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。
あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。
それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、
振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。
このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、
日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。
何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、
20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。
もちろん日本側にもその時点で伝えられています。

(抜粋引用終了)

最重要証拠となるボイスレコーダーには、数々の編集跡がみられる。

さらに大事な部分がカットされている模様だ。

日航機墜落の真実を求めて 

「1985年8月12日発生の日本航空123便墜落事故」はネット上でも真実が
解き明かされ始めた 

★★御巣鷹山日航ジャンボ機事件から23年目 特にボイスレコーダの
編集疑惑や当時の加藤防衛庁長官の行動にも疑惑が。
最重要な証拠となるボイスレコーダーを一切公開しなかった。
10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の
分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。
おそらく自衛隊機との交信部分をカットされてるんじゃないかという気がする。
(実際、スクランブルした自衛隊機が平行して飛んでいるにもかかわらず、
両機が全く交信すらしないというのは考えられないこと。)
・ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった
(『疑惑/JAL123便墜落事故』早稲田出版刊の筆者角田四郎氏)
・マンションのベランダから西空を眺めていたところ、
突然雲の 透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。
双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に
消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
・飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいる
のが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人

<当時自衛官で、事故処理に参加した友達の兄貴の告白>

誤射、国家機密、緘口令、事後処理の為の特殊部隊の編成 
情報撹乱、ガス、火炎放射器...。まさに地獄以下の有様

生存者をかくまったために 拘束されて送り返された者も少なくなかった

日航ジャンボ123便 ソ連軍機ベア~標的機誤射~緘口令~
事後処理の為の特殊部隊の編成~情報撹乱~ガス~火炎放射器~地獄~
投稿者 愉快通快 日時 2012 年 2 月 16 日 19:54:18: aijn0aOFbw4jc

翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。 日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。 
私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。
私には自信があった。
 伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。

我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊に後を任せた。 
それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか?
一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。

事故から2週間たって、私は『タイム』と『ニューズウィーク』で 
生存者が4人いたことを初めて知った。 

『疑惑/JAL123便墜落事故』(早稲 
田出版刊)の著者、角田四郎氏は、御巣鷹山の現場登山に行ったさい、
ある金属片(添 付ファイル)をひろって持ち帰り、
事前説明なしで、友人の航空機の整備士(米国人)に 鑑定を依頼しています。
結果はどうだったのでしょうか。結果について書かれた部分を ご紹介します。 
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      彼の答えは、私のド肝を抜いた。「たぶん」と疑問視を付けて 
      慎重に、しかし、はっきりとこう言った。 
      「ミサイル」(This is missile.) 
      「まさか!」(Not Really !) 
      「たぶん、ミサイル」(Maybe missile.) 
         ――角田四郎著、『疑惑/JAL123便墜落事故』より 
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179 :NASAしさん[sage]:2009/08/29(土) 09:08:53 
NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった
自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。 
続報が入り次第お伝えします」


生存者は
 落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん

日航機墜落事故現場にいた7~8歳くらいの男の子、元気でいた女の子、
中学生くらいの男の子、20代の男。

Aさんは当時子供で、41歳の父親、40歳の母親、10歳の妹の三人を
事故で失った。
大阪に住んでいて、デズニーランド観光の帰りに事故に遭遇してしまった。
その一家のカメラには10枚の写真が残っていた。
 
そのうちの5枚が窓の外を写したものだった。
最初の一枚は、窓際から妹さんが平穏に風景として撮ったものだが、
他の4枚は、違うアングルで、2枚目は父親、3枚から5枚目は妹さんの
隣にいた母親が撮ったものと推定されるという。
異変直後に、咄嗟にカメラをよこしてと、撮ったのだろう。
 
その二枚目の写真をデジタル処理すると、そこには黒い点と思われていた点が、実際にはオレンジ色の物体が、うっすらと浮かび上がっていた。
「オレンジ色の物体」については、当時、吉原公一郎氏が、独自に入手した
ビデオで、事故現場に「オレンジ色の金属片があった」とし、機体には
全く用いられていない物だとし、「自衛隊ののミサイル実験のための
無人標的機が衝突した可能性」を指摘した。
 
当時自衛隊が所有していた「ファイアービー」や「チャカII」
などの無人標的機は、全体が赤みがかった鮮やかなオレンジ色
に塗装されていて、これが事故に関わったというのだ。
 
「事故の十年前、大阪の空港で尻もち事故を起こし、米国での
後部の圧力隔壁の修理が不十分で、これが裂けて外部の垂直尾翼
を破壊して、あの30分もの迷走、ダッチロールの末、墜落した」
という公式説明は、小学生でもわかるいかさまだ。
 
何よりの証拠は、あの異変後の機内の写真だ。
本当に圧力隔壁が破壊されたら、急減圧が起こり、白塵が舞い、
意識もうろう、意識喪失を招き、かつてのハワイでの事故
だったか、風船が破裂して空気が飛び出るように、、座席も人間も
機内のあらゆるものが、ジェットコースターのように、
外部に吹き飛ばされてしまう。とても立ってなどいられない。
 
事故直後、上野村などの現場では、わざと、本当の事故現場に
報道陣や地域の消防隊などが、行かれないような情報誘導が
なされたとしか思えないと、多くの人が証言していた。
人命救助より、先になされなければならなかったことがあったのだろう。
その夜のうちに、ヘリが来ていたのに「何故、すぐ助けてくれなかった
のだろう」と、生存者が語っている。日本航空の従業員組合も、
関係者も圧力隔壁説は断じてありえないと言って来た。
全く酷い話だ。墜落直後に救出が始まっていれば、より多くの人が助かったに違いない。
どのように、弔いの言葉をかければよいのだろうか。
危機的なダッチロールの状況下で書かれた、多くの残念無念の遺書の
文言を思い出す。


謎の飛行物体を操縦クルーが視認した18時18分時点の飛行機の高度は、1万1300フィート(3440メートル)なのですが、謎の飛行物体が
尾翼に衝突した18時24分35秒時点の高度は、2万3900フィート
(7170メートル)であることです。
つまり、6分間に1万2600フィート(3780メートル)も上昇している
のです。
 この2万3900フィートという高度は、ジャンボ旅客機が水平飛行に
移ろうとするときの高度なのです。
JAL123便は、6分間も謎の飛行物体に追い掛け回されていたことを
意味するのです。何かが飛んできて偶然にぶつかったという状況ではなく、その飛行物体は執拗に飛行機を追尾しているのです。
 このことから考えて、謎の飛行物体は明らかに巡航ミサイルであると
いえます。標的が、どのように高度を変えても、時々刻々自ら軌道修正を行い、標的を追い詰めて標的の後ろに回ろうとします。
その結果がJAL123便の垂直尾翼破壊だったのです。

2ch情報、現場の自衛隊員?からの告白。
海自です。 
標的曳航機がニアミスしたと言うデマがはびこっていますが、 
もっとひどいです、誤射です。 
追尾失策で逸れたのに気がついたのですが 
自爆が遅く破片が123便の垂直安定板を直撃しました。 
申し訳有りません。

1981年より自衛隊員の自殺数の調査が行われている、そして1982年から自殺数が急激に上がり1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。

だが実は1981年に調査を開始した記録はなく、1986年に急に以前から
調査していたかのように自殺数を公表しはじめた、一省庁のなかで年間
これだけの自殺者が出るのは、不自然であり不審であるが報道すらされなかった、
しかもなぜわざわざ81年から調査しているなどと嘘をつかなければ
ならないのだろうか?
自殺率増加という一見マイナスイメージしか生まない情報操作は
なにを意図したものであろうか?

最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットだった、

イメージ 3

そしてつづいて同年9月12日14日と航空自衛隊員が二人自殺する、
(これを皮切りに謎の自殺数増加がはじまる)そのうちの一人(12日死亡)が友人に預けていた二枚の写真があるのだが、

一枚は7月に自殺した同僚二人の写真(a)である。

(ぼかしをいれてある)この写真の二人だが、当時隊内では同性愛者の
心中ではと茶化されておわったという、この時の状況だが二人は自殺をはかった直後に発見され、自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も、検視解剖もされなかった。
だがこの写真の異様さに気づくだろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなにもない、しかもパラシュートコードを使ったというが、
このコードは6mmほどで300kg近い耐力があり、首への食い込みは
太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送するまで
生きているとは考えづらくはないだろうか?
(4人とも遺書は残していない)
イメージ 4


そしてもう一枚の写真(b)が暗い倉庫内(建造物にはモザイクをいれた)
の写真だがこれはなんなのか?なぜこの2枚
の写真を何の説明もなく他人に預けたのだろうか?

イメージ 5


下の「資料3」の赤い部分、日航123便の垂直尾翼はその70パーセント
が見つかっていない。

ここで一つのある「うわさ」に行きつく、「日航123便は自衛隊に撃墜された」
と言ううわさである。

ありえない!なんのために自衛隊が民間機を撃墜しなければならないのか、そんな必要もメリットも何もない。荒唐無稽な話としか思えないだろう。

よく自衛隊は民間機や客船、漁船などを敵にみたて、ぎりぎりまで
接近しミサイルのレーダーロックの訓練を頻繁に行っているのは有名な話だが、ここでミサイルを誤射するなどは絶対あり得ない!
別の可能性、自衛隊機と衝突したのであれば飛行中の破損はさらに甚大であるし機長たちも事故前にわかるはずである。

123便に使用されている塗料は白黒赤だけであり、
「オレンジ色」は一切使われていないという。

事故当時のニュース映像で日航側の事故調査員が金属片を回収しようと
して証拠隠滅の容疑で自衛官に連行されたが、
自衛官がなぜ連行なんかしてるのか関係者の間で疑問だった、
その後この映像は一切流れることはなかった。
このとき調査員の回収しようとした金属片も日航機には使用されていないはずの
「オレンジ色」の破片だった…

☆川上慶子さん(当時12歳)は、同乗の両親と妹が亡くなるも奇跡的に生還。病院を退院後、島根の実家に帰った際に証言:
墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。(慶子さんは意識が
無くなって幸運だった。もしその時懐中電灯の人物に助けを呼んでいたら、彼女の今日は無かっただろう。近くに居た、
落合由美さんや吉崎さん母子の今日も…理由は後述。)

この墜落現場で「生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく国籍が日本では無い、と信じたい。
来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは?任務遂行のみに
全神経を集中する訓練と共に、部隊を編成するに当たって「日本人を嫌悪する教育」を受けた者達が選ばれたのではないか?


123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?
『お前達は何者だ!?乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』現場で何が起こっているのか、理解している人はほとんど
いなかったであろう。彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。

ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃と
たいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。
写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、
あるいは近くで激しく燃えていたことになる。
しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。

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しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」(写真誌フォーカス)と記載されている。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、
この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で
焼かれたのだ」と。元記事

当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏
(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試みている。
「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、
骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化する
ほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。
周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼
かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない

写真下:女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された
携帯用VXガス兵器と思しき容器。20数年経って、瓶には微量の液体が
残っていた。持ち帰る際、念のため何重にもビニール袋で密封したが、
調査に当たった方達2人は、密封を解いた途端気分が悪くなり、
数日間寝込んでしまったという。
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    次回に続く・・・