8月6日 広島

8月8日 長崎


何故日本の敗戦が決定的なこの時期に?
日本の2箇所に原爆が落されたのか?
一瞬にして数十万の命を奪い、また生き残った人達もその子孫に至るまで
その後凄惨な人生を送ることとなった行為は正当化
されるものではない。
ブロガー阿修羅さんの記事に投稿された金剛夜叉 日時 2013 年 8 月 11
日の記事でこう言っています。
しかしながら広島・長崎の被爆は、日本が第二次世界大戦に
参戦したから引き起こされた悲劇ではない。
参戦したから原爆を落とされたという因果応報的な自虐史観は
いかがなものかと思う。
日本には元々第二次世界大戦を戦い抜く力はなく早く終戦させたかった。
戦争を終結させるために原爆投下は必要ではなかったことは明らかだっ
た。
終戦後、GHQ占領の元でアメリカのためだけの資本主義、民主主義教育
体制が構築され日本人は自虐史観を持つよう洗脳されてきた。
今、世界で戦争や紛争が起こると「人道的」という言葉がよく使われる。
「人道的」とは人が人としてどうあるべきかを問う言葉だと思う。
人が人であるならば、「人道的」という概念は太古の昔から変わって
いないはずだが、どうやらこの言葉は欧米諸国の都合によって
使い分けられているようだ。
日本人はもちろん人間なのだが、
欧米の一部のものたちはそうは思っていない。
人間以下の動物と思っているわけだから、人道的という概念も
日本人に対しては適用されないというわけだ。
アメリカは自国民に対しプルトニウムを投与するという人体実験を
国家プロジェクトとして行っていた国である。
人間以下の日本人を原爆の実験台にすることに何のためらいも
なかったのだ。
最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月と
いう早い時点で「対日投下」を決定し、
原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、
アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを
中心に議論していたことが判明している。
「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、
もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。
彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。
京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたという
まさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。
しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、
京都は原爆のターゲットから外された。
彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22
日)。一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理
由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していた
から」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。
この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を
洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。
アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、
空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に
把握するため、空襲が禁止されていたのである。
京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に
日本が降伏したからにすぎない。
ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせた
フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として
激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が
蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、
日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。
これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、
人間であることを示すような点はどこにもない。」
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。
人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために
我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を
根絶しなければならない!」
ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる
人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、
アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。
それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が
財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに
広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。


このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、
白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは
明らかである。
(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系の
アメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)
8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して
世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。
これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。
この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち
9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。
原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる。
マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を
作成し(しかし、それを大統領だったハリー・トルーマンが承認した証拠はな
い)、
ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官
(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。
アメリカ側の事前協議で投下都市が決められたが候補地は
川崎、横浜、東京湾、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、呉、
山口、下関、小倉、八幡、福岡、佐世保、長崎、熊本。であったと言い、
作戦責任者であるレスリー・グローブスは被害状況が把握しやすいと
された”京都”を強く支持した。
陸軍長官であったスティムソンは京都を2度ほど訪れたことがあり、
予想される被害の大きさから、後日世界から非難され
又は戦後日本が反米国になることを恐れ京都以外を指示した。
スティムソンは戦争で市民の死は避けられないことは分かっていたが、
意図的に市民を狙って殺すことは別だと考えていたのです。
そしてトルーマン政権は、軍に突如介入し、まったをかけたのです。」
と述べている。(後日、作られた話しか?)
原爆投下後、数日してトルーマンが発した言葉(スティムソンの日記に
記されていた。)
「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。」
軍の狙いを見抜けなかったトルーマンはその自らの責任に初めて
気付いたのだった。
しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走し始めた。
そして8月9日、原爆は長崎にも投下された。
トルーマンが広島の実態を知った半日後のことだった。
これに対しトルーマンは「日本の女性や子供たちへの
慈悲の思いは私にもある。
人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。」
と8月9日付の日記に記している。(Wikipediaより)が真実は不明!
長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、
アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で
使用された最後の核兵器である。
アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾の
コードネームを「ファットマン(Fat Man)」と名付けていた。
制式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。
ファットマンの投下より、当時の長崎市の人口24万人(推定)の
うち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。
日本側が終戦後直ぐに原爆被害の状況を調べ始めたが、戦勝国側から
待ったがかかりいかなる調査も出来なかったそうである。
ポツダム宣言
1945年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席
の名において大日本帝国(日本)に対して発された、
「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である。
正式には日本への降伏要求の最終宣言であり、日本の敗戦が
決定的となった時期である。
残念ながら日本国の現役総理大臣はポツダム宣言を理解していないよ
うな事を過日平気な顔で公式に発表していたらしい。
そんな事で日本国の首相が務まるなら、幼稚園児にも勤まりそうである。
ポツダム宣言13か条の要旨
1、我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、
我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を
終結する機会を与えることで一致した。
2、3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を
既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、
同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され
且つ鼓舞される。
3、世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、
ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に
完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に
壊滅することを意味する。
4、日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた
軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を
歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5、我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては
譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。
執行の遅れは認めない。
6、日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた
勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまで
は、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7、第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが
確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するた
め、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8、カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は
本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に
限られなければならない。
9、日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に
生活出来る機会を与えられる。
10、我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を
滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む
一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民
における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる
障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに
基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11、日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手
段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国
際貿易に復帰が許可される。
12、日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある
政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が
達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
13、我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、
またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。
これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
ここに書いてあることは5分もかからず、読み理解することが出来
る。
それすらも出来ない者を日本国の代表に据えておく事自体が
国民全体の怠慢と言わざるを得ない。
こんな代表者に、安保法制も憲法改正もやらすべきではない。
強行採決されたと思われるものは即時撤回。
日本の代表者は変わるべきである。
それが出来ない与党であるなら、議員失格、今後の選挙に立候補
する資格すらない。
戦後の日本の実態
カーチス・ルメイ

勲一等旭日大綬章を日本より受けている。

勲一等旭日大綬章
理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。
1964年12月7日、日本に返還されたばかりの入間基地で
勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、
昭和天皇は親授しなかった。
佐藤内閣当時、戦争中に日本中の無差別爆撃や東京大空襲で
10万人以上の犠牲者を出したと言われるアメリカ軍の
指揮官ルメイに国民に公開されることはなく勲章を授与である。
ルメイは後日こんなことを言っている。
『当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった』
1945年8月15日終戦。9月20日、記者会見でルメイは
「戦争はソ連の参戦がなくても、原爆がなくても、二週間以内に
終わっていたでしょう。
原爆投下は、戦争終結とはなんら関係ありません」と答えている。
実は在日米軍の幹部には過去50年足らずの間に263個もの勲章が
授与されているらしい。

