




少々例によって長くなります。
フィリピンにお住まいの女狂いのボケ老人(私も含めて)には
難しい内容かも知れません。
様々な人が出てきます。
読むのが大変な方はここでお辞めになって綺麗な女性・奥様をかま
っている方が健康には良いかも知れません。
このページから退去なさることをお勧めいたします。
お互い残された時間は長くないはずです。
さあ貴重な時間は、貴方が苦労されて働いてきた分、今を楽しむ為
に使いましょう。
共産主義を私のない頭で考えると、共に働ける物は働き
働けない者を助けながら貧富の差のない公平な世の中を
作る為の主義主張?だと思っております。
理想郷の世界ですね。私はそういう世界を望みます。
だがそれは現実とは違うようです。
だから、今の共産主義は大きらいです。
数年前「パナマ文書」という物が世の中に公表され大騒ぎになり
ました。
比較するのはおかしいですが、そのズーット前に「ヴェノナファイル」
(文書)と言うものがアメリカ国家安全保障局・イギリスの情報機関
より開示されました。
一般人が知らなかったことが世に出たと言うことでは同じですが、
その内容上後者が比格にならないぐらい、大事な物であること
は周知の事実です。
この後の本文中に『コミンテルン』と言う言葉が頻繁にでてきますが
Wikipedia等を元に簡単に解説しますと、
『コミンテルン』
1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国
の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、
という使い分けがなされた。しかしウラジーミル・レーニン死後に
スターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、
各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。
1920年代中頃の中華民国では、ブルジョア政党の政権が共産党を弾圧し
ても黙認。
アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略
江崎道朗(日本会議専任研究員)
収まらない「ヴェノナ」の衝撃
第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ政府内に多数のソ連のスパイが
潜入したことを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では
「ルーズヴェルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」

という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。
当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。
しかも、そのピッチは近年、急加速していると言っていい。
ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ内の
ソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、
アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。
1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。
これら機密文書が次々と公開され、その研究が進んできた結果、
ルーズヴェルト大統領の側近であったアルジャー・ヒス(1)
[以下、主要人物に通し番号を附し、共産党員または協力者と思われる
人物は傍線を引く]を始めとする200人以上のスパイ(あるいは協力者)
が政府官僚として働いていたことが立証されつつあるのだ
(中西輝政監修『ヴェノナ』PHP研究所)。
ルーズヴェルト政権内部にソ連のスパイたちがいるという疑念は、
60年以上前からあった。1948年、下院非米活動委員会において
『タイム・マガジン』記者のH・チェンバースが、アルジャー・ヒス(1)
を「ソ連のスパイだ」と告発した。
1950年には、ジョセフ・マッカーシー上院議員が「国務省に潜む共産党
員の名簿を入手した」と発言し、容共政策を進めた国務省や陸軍の幹部
たち、特にジョージ・マーシャル国務長官(2)や、蒋介石政権の顧問を務
めたオーエン・ラティモア(3)らの責任を激しく追及した。
「マーシャル国務長官(2)やラティモア(3)らはソ連に通じており、
ひそかに中国共産党政権の樹立を支援した」というのだ。
確かに彼らはソ連や中国共産党に好意的な発言をしていたが、
ソ連のスパイだと断定する証拠も当時は見つからなかった。
しかも、ソ連のスパイだと名指しされた人物が次々と自殺をしたため、
リベラル派のマスコミは、「マッカーシー上院議員らが根拠なく言論弾圧
を行った結果、自殺に追い込まれた。これは現代版の魔女狩りで許され
ることではない」などと、保守派批判を繰り広げたのである。
以後、ソ連や中国共産党に好意的な言動を理由に批判することは
タブーとなってしまった。アメリカでも戦後、ソ連や中国に親近感をもつ
リベラル派にマスコミは支配され、保守派は肩身が狭かったのだ
(リー・エドワーズ著『アメリカ保守主義運動小史』明成社)。
それだけに、ヴェノナ文書がアメリカの知識人たちに与えた衝撃は
大変なものだった。「国連創設にまで関与したアルジャー・ヒス(1)
らがソ連のスパイであるはずがない」と断言していたリベラル派の学者や
マスコミは沈黙を余儀なくされた。
ソ連が崩壊し、1991年に登場したロシアのエリツィン政権が、
旧ソ連時代のコミンテルン・KGB文書の一部を西側研究者に公開する
ようになったことも追い風となった。
これらの文書の公開によって、「やはりルーズヴェルト民主党政権内部に
ソ連や中国共産党に利するような政策を推進したスパイがいた」
という声が、保守派から実に60年ぶりに上がってくるようになった。
その代表者が評論家のアン・コールター女史で、彼女はヴェノナ文書を
引用しながら2003年、『トリーズン(反逆)』(邦訳『リベラルたち
の背信――アメリカを誤らせた民主党の六十年』草思社)を書いた。
その影響か、共和党のジョージ・ブッシュ大統領は2004年5月13日、

アメリカ保守主義同盟40周年大会の記念講演で、アルジャー・ヒス
らを告発した『タイム・マガジン』記者のチェンバースを
「アメリカの保守主義のリーダー」として高く評価した。
そしてその翌年の2005年5月7日、ブッシュ大統領はラトビアで
演説し、アルジャー・ヒス(1)が関与したヤルタ協定について
「史上最大の過ちの一つ」だと強く非難したのである。
ヤルタ協定とは1945年2月、ルーズヴェルト大統領、チャーチル首相、
スターリン元帥という米英ソ三カ国首脳がソ連領ヤルタで行った会談に
おいて、国際連合構想にソ連が同意する見返りとしてポーランドや
バルト三国などをソ連の勢力圏と認めることや、ソ連の対日参戦と
引き換えに満州の権益や南樺太・北方領土を与えることを認めた
秘密協定のことだ。
第二次世界大戦後、東欧諸国がソ連の支配下で苦しんだのも、
日本の降伏後、ソ連による満州・北方領土占領、中国共産党政府の樹
立、朝鮮半島の分割など極東で連鎖的に起きた危機も、すべてヤルタ
協定にその原因をたどることができる。
後に「ヤルタ体制」と呼ばれるようになった戦後の国際秩序の出発点を、
こともあろうに当事国であったアメリカのブッシュ大統領が正面から
批判したのだ。
これに対してロシアのプーチン大統領は5月7日付仏紙フィガロで、
「米英ソの三首脳がナチズム復活を阻止し、世界を破局から防ぐ国際体
制を目指して合意した。その目的に沿って国連も結成された」と、
ヤルタ協定について擁護するなど、国際政治に少なからぬ反響を巻き起
こした。
急増する歴史見直しサイト
一方、アメリカの保守主義者たちは、ブッシュ大統領の発言を歓迎した。
フェミニズム反対運動のリーダーとして著名なフィリス・シェラフリー女史
は「ブッシュ大統領、ヤルタの屈辱を晴らす」と題した論文でこう書いた。
ジョージ・W・ブッシュ大統領、ありがとう。去る5月7日、
ラトビアにおいて演説したブッシュ大統領は、大国同士の談合によって、
多くの小国の自由を売り飛ばしたヤルタ協定は誤りだったと指摘しまし
た。
時期がだいぶ遅れたとはいえ、誤った歴史を見直し、F・D・ルーズヴェル
ト大統領の悲劇的な間違いの一つについてよくぞ(ヤルタ協定によってソ
連に併合された東欧諸国に対して)謝罪の意を表明してくれました
さらに、この数年で、ヴェノナ文書などを引用してソ連や中国共産党を
支持していたルーズヴェルト政権の政府高官や知識人たちを
告発するサイトが急増しているのである。
その代表的なものが、2006年11月に開設された「コンサバペディア」
である。ヴェノナでスパイとされた人物の一覧やそのプロフィール、
他で明らかになっているソ連のスパイたちのリストとともに、
相次ぐヴェノナ研究の新たな成果を紹介し続けている。
この中では、従来の東京裁判史観とは違って、「日米戦争を引き起こした
のは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったの
か」という視点まで浮上してきている。
東京裁判史観からの脱却をめざす我々にとって、絶好のチャンスを
迎えているのだ。
意外なことに、アメリカの反日運動の背景にソ連のスパイたちの暗躍が
あることに当時から気づいていた人物がいた。日本外務省の若杉要
ニューヨーク総領事である。若杉総領事は昭和13年から15年にかけて
アメリカの反日運動の実態について詳細な報告書をたびたび作成し、
外務省に報告していたのだ。
若杉総領事が作成した報告書の多くは当時機密文書扱いであったが、
平成14年からアジア歴史資料センターにおいて公開され、
現在はアジア歴史資料センターのホームページにて誰でも見ることが
できるようになっている。
これら若杉総領事の報告書とヴェノナ文書、コミンテルン文書等を
併せ読むことで、ソ連・コミンテルンの対米工作の一端が見えてくる。
その実態を最新の研究成果を踏まえ、順を追って再現したい。
◇第1段階
アメリカ共産党の創設
ソ連の指導者レーニンは1919年、世界共産化を目指してコミンテルンを
創設した。
世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、
共産党一党独裁政権を樹立することである。ではどうやって世界共産化
を成功させるのか。レーニンは、「敗戦革命論」を唱えた。
敗戦革命論とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義
国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を
敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという
革命戦略だ。
要するに、共産主義革命のため、国家間の対立を煽って戦争を引き起こ
し、自国を敗戦に追い込もうというのだ。なんとひどい発想だろうか。
日本にとって不幸だったのは、この謀略の重点対象国が、日露戦争を
戦ったわが日本と、世界最大の資本主義国家アメリカだったということだ。
日米二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、
コミンテルンにとって最重要課題であった。
現にレーニンは1920年、世界共産化を進めるためアメリカを利用して
日本に対抗し、日米両国の対立を煽るべきだと主張している。
こうした「資本主義国間の戦争から敗戦革命へ」という戦略を
遂行するために1919年、コミンテルン・アメリカ支部として
アメリカ共産党も設立されたのである。
◇第2段階
人民統一戦線を構築せよ
1931年、アジアで満州事変が勃発し、ソ連は日本と国境線を挟んで
直接対峙することになった。
日本の台頭に恐怖を覚えたコミンテルンは1932年2月、「満州に
対する日本の攻撃と反ソ大戦争の準備との密接な関係」を理解して
いない外国の同志たちを厳しく叱責し、「断固たる大衆動員が必要であ
る。
何よりも、あらゆる資本主義国の鉄道を通り、あらゆる資本主義国の
港から日本に向けて積みだされる武器と軍需物資の輸送に反対しなけ
ればならない」として、日本と戦う中国を支援するとともに、
対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した
(クリストファー・アンドルー他著『KGBの内幕・上』文藝春秋)。
この指示を受けてアメリカ共産党は1933年、「日本の侵略に抵抗する
中国人民の闘い」を支援する世論を形成してアメリカの力で日本を
押さえ付けるべく、「アメリカ中国人民友の会」を設立した。
同会の会長には左翼系雑誌『ネイション』の編集者マックスウェル
・スチュアート(4)が、機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長には
フィリップ・ジャフェ(5)がそれぞれ就任した。
二人とも当時ソ連との関係を否定していたが、ヴェノナ文書で
ソ連のスパイだったことが判明している。
この1933年にドイツではヒトラー政権が成立。日独という二つの
反共国家の台頭に脅威を感じたソ連は世界戦略を大きく転換する。
1935年にモスクワで開催された第7回コミンテルン大会において、
従来の「階級闘争・世界共産主義革命路線」を修正し、日独という
ファシズム国家と戦うためにアメリカやイギリスの資本家や社会主義者
とも手を組んで広範な人民統一戦線を構築するよう各党に指示したので
ある。
一方、ルーズヴェルト大統領も1933年、ハミルトン・フィッシュ
下院議員ら保守派の反対を押し切ってソ連との国交を樹立した。
コミンテルンによる人民統一戦線路線と米ソ国交樹立を受けて
アメリカ共産党は、「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」と
いう外廓団体を設立し、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組
(CIO、組合員数150万人)」といった労働組合や「アメリカ反戦会議」
(ジョン・デューイ会長)といった平和主義団体、そして宗教界、
スポーツ界、芸術界などに積極的に入り込んでいった。
共産党色を消したこの反ファシズム運動は、ナチス・ドイツの台頭を
憂慮するリベラル派知識人やキリスト教グループなどの参加を得るよう
になっていく。
この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で
1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・プラウダー(6)
であった。アメリカに来るまでは、中国において周恩来や
リヒャルト・ゾルゲなどと共に諜報工作を行うプロの活動家で
あったプラウダーは、上海では「南京での市民二十万人虐殺説」
を唱えた有名な作家のアグネス・スメドレー女史(7)とも仕事をしていた。
ちなみにスメドレー女史(7)は生前、ソ連との関係を否定してきたが、
コミンテルン文書の公開によって、1935年9月2日付でプラウダー(6)
がコミンテルンの指導者ディミトロフに出した手紙が見つかり、
スメドレー女史(7)がコミンテルンからの資金援助を受けて
欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明している
(H・クレア他著『アメリカ共産党とコミンテルン』五月書房)。
◇第3段階
シンクタンクIPRの乗っ取り
この人民統一戦線を理論的に支えたのが、当時アメリカ最大の
アジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)」だった。
IPRは、アジア太平洋沿岸国のYMCA(キリスト教青年会)の
主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共に
キリスト教布教を強化する目的で1925年、ハワイのホノルルで
汎太平洋YMCA会議を開催した際に創設された。
ロックフェラー財団の資金援助を受けたIPRはアメリカ、日本、中国、
カナダ、オーストラリアなどに支部を持ち、2年に一度の割合で
国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題に
ついてのシンクタンクへと成長することになる。
このIPRを、アメリカ共産党は乗っ取ったのだ。YMCA主事として
インドや中国で活動したエドワード・カーター(8)が1933年
に事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の外交政策を
批判する政治団体へと、IPRは性格を大きく変えていく。
カーター事務総長(8)は1934年、IPR本部事務局をホノルル
からニューヨークに移すと共に、政治問題について積極的に取り上げる
ことを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長に
オーエン・ラティモア(3)を抜擢した。
後にマッカーシー上院議員によって「ソ連のスパイ」だと非難された
ラティモア(3)はIPRの機関誌において日本の中国政策を「侵略的」
だと非難する一方で、中国共産党に好意的記事を掲載するなど、
その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。
にもかかわらず、ラティモアを擁護し続けたカーター事務総長(8)
はFBIの機密ファイルによれば、自ら「共産党のシンパだ」
と認めており、その周りには共産党関係者が集まっていた。
一九二九年にカーター(8)の秘書としてIPR事務局に入った
フレデリック・ヴァンダービルド・フィールド(9)は有名な資産家の
息子で、その左翼的言動から「赤い百万長者」と呼ばれていた。
そのほか、カーター事務総長(8)のもとでIPRの研究員と
なったメンバーは、歴史学者で後にカナダの外交官となった
ハーバート・ノーマン(10)、シカゴ大学出身で1941年には
蒋介石政権の財務大臣秘書官となる冀朝鼎(きちょうてい)(11)、
そして上海でゾルゲ・グループの一員だった陳翰笙(ちんかんしょう)(12)
がいるが、ヴェノナ文書によれば、フィールド(9)も冀朝鼎(11)も
ソ連のスパイだった。陳翰笙(12)は中国共産党のスパイだったし、
東京裁判でA級戦犯選定に関与したハーバート・ノーマン(10)
も戦後の1957年、アメリカ上院司法委員会で共産党員では
ないかと追及され、エジプトで自殺している。
IPRは一九三九年になると、冀朝鼎(11)、陳翰笙(12)ら
共産党員の手で、ハーバート・ノーマン(10)著『日本における
近代国家の成立』など日本の中国「侵略」を批判する「調査シリーズ」
というブックレット集を次々と刊行し、欧米諸国の外交政策に多大な
影響を発揮したばかりか、アメリカの対日占領政策の骨格を決定する
ことになった。
何故ならIPRは戦時中、太平洋方面に派遣される陸海軍の将校向け
の教育プログラム作成に関与すると共に、『汝の敵、日本を知れ』
といった啓蒙用反日パンフレットを軍や政府に大量に供給したからで
ある。
特にIPRが製作に協力したフランク・キャプラ監督の宣伝映画
『汝の敵を知れ』は、日本が世界征服を目論んでいたとする
田中メモランダムや「国家神道による洗脳」、「南京大虐殺」
などが毒々しく紹介され、神道指令や東京裁判における「南京大虐殺」
追及へとつながることになった。
因みにこの反日宣伝映画の製作や米軍将校教育プログラムをIPRに
委託するよう指示したのは、ジョージ・マーシャル陸軍参謀長(2)だった。
◇第4段階
中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊
1936年12月、中国で西安事件が起こり、中国国民党の指導者蒋介石
は、中国共産党と共に抗日戦争を開始する方向へと政策転換を強いら
れた。
この国共合作を支援するアメリカ世論を形成すべく、
「赤い百万長者」のフィールド(9)は1937年3月、
『チャイナ・トゥデイ』編集長ジャフェ(5)と共に、中国共産党を
支持する雑誌『アメラジア』を創刊する。
その編集部事務所は、IPR事務局と棟続きに置かれ、IPR機関誌の
編集長ラティモア(3)、冀朝鼎(11)、そして元在中国宣教師で
外交政策協会研究員のT・A・ビッソン(13)が編集委員となった。
戦後GHQの一員として財閥解体などを担当したビッソン(13)
もまたヴェノナ文書によれば、ソ連のスパイであった。
『アメラジア』を創刊したジャフェ(5)やフィールド(9)は
1937年6月、ラティモア(3)やビッソン(13)と共に訪中し、
作家のスメドレー女史(7)とも合流して中国共産党の本拠地である延安
を訪問、毛沢東、周恩来らにインタビューをしている。来るべき日中戦争
に際して、いかなる諜報工作を展開するのか、綿密な協議が行われたに
違いない。
◇第5段階
「ルーズヴェルト大統領一族を取り込め」
1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの反ファシズム団体
は一斉に、反日親中運動を開始した。
当時、全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る
「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」は11月に全米大会を開催し、
その名称を「アメリカ平和民主主義連盟」と改め、「平和」「民主主義」
を守るという名目を掲げることで、広範なアメリカ民衆を結集しよう
としたのだ。
更にこの「アメリカ平和民主主義連盟」のもとに、全米22都市に支部
をもつ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国「侵略」反対のデモや
対日武器禁輸を国会に請願する活動も開始した。
在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付機密文書
『米国内ノ反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長
に就任したのは、ジェームス・ルーズヴェルト夫人だった。
ルーズヴェルト大統領の実母だ。名誉副会長には中国政府の胡適(こて
き)元駐米大使が、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長(2)の
夫人がそれぞれ就任した。夫の理解がなく夫人がこのような反日組織の
理事に就任するとは思えないし、前述したようにマーシャル陸軍参謀総
長(2)は戦時中に「南京大虐殺」を非難する反日映画の製作を命じてお
り、その思想傾向はよくよく検証する必要がありそうだ。
ともかく、表向きはルーズヴェルト大統領の実母やマーシャル陸軍参謀
総長夫人が役員を務めた「中国支援評議会」だが、その実態はやはり
アメリカ共産党の外廓組織だった。
他の常任理事には、フィリップ・ジャフェ(5)や冀朝鼎(11)ら
「ソ連のスパイ」が就き、事務局長にはミルドレッド・プライス女史が
就任した。ヴェノナ文書によれば、プライス女史は、その姉妹である
マリー・プライス女史(著名な評論家ウォルター・リップマンの秘書)と共
に、アメリカの内部情報をソ連に報告していたスパイであった。
ヴェノナ文書が公開された現在だからこそ、彼らがソ連のスパイで
あることも分かっているが、当時の一般のアメリカ人たちの目には、
ジャフェ(5)もプライス女史も中国救援に熱心な人道主義者と映って
いたに違いない。中国支援評議会の活動に協力したアメリカ人は約300
万人とも言われているが、アメリカの大多数の国民は見事に騙されてい
たわけだ。
「南京」宣伝の背後にゾルゲ
この反日国民運動と連携して、日本軍の「残虐行為」を告発する反日宣
伝も欧米で活発になっていく。
仕掛けたのは、蒋介石率いる中国国民党だった。
中国国民党は1937年11月、中央宣伝部のもとに国際宣伝処を設置
し、国際的な宣伝工作を開始した。その一環として国民党が仕掛けたの
が、欧米の新聞記者、宣教師、大学教授を使って対日批判を繰り広げる
ことであった。
その成果の一つが、イギリスのマンチェスター・ガーディアン紙
特派員のH・J・ティンパーリが1938年6月、ニューヨークやロンドンで
出版した『戦争とは何か』であった。
南京事件を最初に世界に知らせたと言われているこの本は中国国民党
国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれた宣伝本であり、
ティンパーリ自身も中央宣伝部の顧問だった。
この宣伝本を分担執筆したのは中国YMCA主事のジョージ・フィッチ
とマイナー・ベイツ南京大学教授だが、ベイツもまた中国政府の顧問だっ
た(東中野修道著『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、
北村稔著『南京事件の探求』文春新書)。
因みに、この動きにどうやらコミンテルンも関与しているようだ。
楊国光著『ゾルゲ、上海ニ潜入ス』(社会評論社)によれば、
1937年7月、盧溝橋事件が起きた直後にリヒャルト・ゾルゲはドイツの
新聞記者として盧溝橋を訪問。
その後、日本の軍用機に相乗りして南京に飛び、南京陥落直後の
12月中旬、「南京大虐殺」を目撃したという。南京のドイツ大使館は
当時、ドイツ本国政府に「日本軍は殺人マシーンとなって市民を殺害して
いる」
という報告書を提出しているが、この報告書にゾルゲが関与している
可能性があるのだ。
更に早稲田大学客員教授の加藤哲郎氏によれば、上海でゾルゲや
アグネス・スメドレー(7)らに秘密の会合場所を提供していた
建築家のルドルフ・ハンブルガーは実は上海のソ連・赤軍諜報部の
責任者であり、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの上海時代の
諜報活動の助手であった。
このハンブルガー夫妻の友人が「南京大虐殺」の証拠の一つと言われて
いる『ラーベ日記』を書いたジョン・ラーベ(ジーメンス社中国総社長)で
あった。
歴史の闇は深く、「南京大虐殺」キャンペーンに、ソ連・コミンテルンの
スパイたちが関与していた疑いが浮上している。
◇第6段階
スティムソン元国務長官を利用したロビー活動
舞台をアメリカに戻そう。1937年12月から翌年の1月、
日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は、戦地の模様を
映画フィルムでひそかに撮影していた。このフィルムは、中国国民党の
顧問だったティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して編集され、
YMCAによる中国支援・日本非難キャンペーン用の映画として
アメリカ各地で上映された。
この映画を南京からアメリカに持ち出したのが中国YMCA主事
ジョージ・フィッチ(14)で、彼は38年4月、首都ワシントンDC
においてヘンリー・スティムソン元国務長官(15)や、
スタンレイ・ホーンベック国務省極東部長(16)ら要人と
会見している。何のために? 恐らくルーズヴェルト政権に対する
ロビー活動を行う組織の創設について相談したのではなかったか。
なぜならフィッチ(14)らが発起人となって38年8月、ニューヨークに
おいて「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、
対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に
始まったからだ。
馬暁華(ばぎょうか)著『幻の新秩序とアジア太平洋』(彩流社)によれば、
アメリカ委員会設立を最初に言い出したのは、ハリー・プライス
元燕京大学教授(17)だった。彼は弟フランク・プライス(在中宣教師)
(18)と共に、ニューヨーク地域在住の友人たちに呼び掛け、
対中軍事援助の実施や対日経済制裁を求めるロビー団体の必要性に
ついて相談した。さらに6月7日にワシントンDCに赴き、
国務省極東部長ホーンベック(16)と会見したところ、
ホーンベック(16)は、アメリカ社会の孤立主義の空気を変え、
アジア問題への関心を高めるため、「キャンペーン活動を行うべきであ
る」
との考えを示し、ハリー・プライス(17)の主張を支持した。
国務省の支持を得たプライス兄弟は、「奇跡の人」で有名な
ヘレン・ケラー女史、元在中国外交官のロジャー・グリーン
(IPR理事長でロックフェラー財団理事ジェローム・グリーンの弟)、
元在中宣教師マックスウェル・スチュアート(4)、
雑誌「アメラジア」編集人フィリップ・ジャフェ(5)、
YMCA中国事務局長ジョージ・フィッチ(15)、女性平和団体
「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表の
ジョセフィン・シェイン女史などと共に1938年7月、
ニューヨークにおいて「アメリカ委員会」を設立した
(正式な設立は1939年1月で、元国務長官ヘンリー・スティムソン(15)
が名誉会長に就任した)。
発起人の内、フランク・プライス(18)は中国国民党中央宣伝部国際
宣伝処の英文編集委員会主事だった。元在中宣教師マックスウェル
・スチュアート(4)はアメリカ共産党の外廓団体「アメリカ中国人友の会」
会長で、ジャフェ(5)、ビッソン(13)の2人はヴェノナ文書で
ソ連のスパイと見なされた人物だ。
そして「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」
代表のジョセフィン・シェイン女史は、アメリカ共産党のシンパ
だったと言われている。
因みにシェイン女史率いる「戦争の原因究明と解決策創出のための
全国委員会」の構成団体の一つである「全国女性クラブ連合」の
幹部の1人がエレノア・ルーズヴェルト、つまり大統領夫人であった。
このようにキリスト教関係者を前面に出しながら、その実態は中国国民
党の工作員とアメリカ共産党関係者によって構成されていたアメリカ委員
会は、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレット
(A5判サイズで80頁)を6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを
2万2千部作製し、連邦議会上下両院のあらゆる議員やキリスト教団
体、 婦人団体、労働組合などに配布し、大々的なロビー活動を開始し
た。
このロビー活動を受けてルーズヴェルト政権は、中国支援へと舵を切っ
ていく。
ホーンベック国務省極東部長(16)の進言を受けてルーズヴェルト
大統領は1938年12月、「対日牽制の意をこめて」、中国国民党政府に
2500万ドルの借款供与を決定したのである。
共産党の暗躍を見抜いていた若杉総領事
「反ファシズム・デモクラシー擁護」という大義名分に惑わされて、
スティムソン元国務長官(15)やホーンベック国務省極東部長(16)
ら政府関係者までがアメリカ共産党の工作に引っかかってしまっていた。
それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったわけだが、当時のアメリカで
は、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もある。
何しろアメリカ政府、具体的にFBIが、アメリカ共産党をマークするのは
1939年の後半になってからのことであった。
一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後に
アメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。
若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月20日、宇垣一成外務大臣
に対して、『当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件』と題する機密報告
書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析してい
る。
一、シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシー
を擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況を
センセーショナルに報道している。
二、ルーズヴェルト政権と議会は、世論に極めて敏感なので、
このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても反日的
になりがちだ。
三、アメリカで最も受けがいいのは、蒋介石と宋美齢夫人だ。
彼らは「デモクラシーとキリスト教の擁護者だ」とアメリカの一般国民
から思われているため、その言動は常に注目を集めている。
四、一方、日本は日独防共協定を結んでいるため、ナチスと同様の
ファシズム独裁国家だと見なされている。
五、このような状況下で中国擁護の宣伝組織は大別して中国政府系と
アメリカ共産党系、そして宗教・人道団体系の三種類あるが、共産党系
が掲げる「反ファシズム、デモクラシー擁護」が各種団体の指導原理と
なってしまっている。
六、共産党系は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力
の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めてい
る。
七、共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を
悪化させてシナ事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的
圧力を加えることができないようにすることだ。
若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズヴェルト政権の
反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを強調し、
共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えたのだ。
「トロイの木馬作戦」
ルーズヴェルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて
1939年7月26日、日米通商条約の廃棄を通告。
