今日はホーリーウイーク最後の土曜日で、フィリピンでは
神のいない日になります。
この日は特に大事な用事が無い限り外出を控えるようです。
今日の夜中にキリストの親族が墓を訪れると、棺の中に
ある筈の遺体が消えていたそうです。
さあいよいよ復活です。

私の高校はカトリックのミッションスクールで神父を目指す人が
多かったのです。
宗教の時間にこの世にある全ての物は神が作られたそうです。
え~っ、と言う声が上がったことを覚えています。
夢物語のよう!
夢物語と言えば日本で江戸時代にタイムスリップしたような
場所が観光地として内外の人に人気があるとか。
そのお話を。
”気分は参勤交代。江戸時代からの民家が30軒以上並ぶ「福島・大内宿」”
( 小林繭 フリー編集ライター 2018/03/17)
江戸時代にタイムスリップ!

合掌造りで知られる「白川郷」や、木曽路の風情あふれる
「妻籠宿」など、日本の古い町並みを残す集落を訪ねた
ことがありますか?
まるでTVや映画で見る時代劇そのものの町並みを眺めながら、
アスファルトで舗装されていない道を歩くのはなかなか新鮮な
体験です。江戸時代へタイムスリップしてしまったような
フォトジェニックな風景は、私たち日本人はもちろんのこと
外国人にも人気で、SNSに投稿すると、必ず外国人の友達から
「行きたい!」「そこはどこなの?」とリアクションがあります。
そんな古きよき時代の面影がそのまま残る南会津の集落といえば「大内宿」。
会津城と下野の国(日光今市)を結ぶ旧会津西街道に位置する
この集落は、会津から二番目の宿駅として1640年ころに整備せれたもの。
今ではなかなかお目にかかれない立派な茅葺屋根の家屋が
街道の両側に均等に建ち並ぶ様子は、昔話の絵本で見た風景そのものです。
県道131号線と呼ばれる旧会津西街道は、山間を縫うように那須岳
の北を走る街道で、大内宿はまさに山の合間に突然ぽっかりと
浮かぶ里といった風情。
21世紀となった今でもまわりをぐるりと山に囲まれているのは
変わりなく、そこだけ江戸時代で時が止まってしまったような
風景が広がります。
ビルやマンション、看板など近代的な人工建造物が一切視界に
入ることがないのが特徴で、 “タイムスリップしてしまったのかも”
とか“きつねにつままれた”とか、現生ではないどこか、夢うつつの
世界に紛れ込んでしまったことを疑いたくなる空間なのです。
江戸時代、会津西街道は参勤交代や江戸への米の運輸路として
重要な交通路で、会津若松城(鶴ヶ城)から5里(約20km)の
距離にあるこの大内宿はおおいに栄えた宿場町です。
宿には本陣(大名や旗本、幕府の役人などが使用した宿舎)や
脇本陣(本陣の予備)が設けられ、会津藩をはじめ新発田藩、
村上藩、庄内藩、米沢藩など周辺の藩士たちにより大変な賑わい
をみせていたようです。
今も当時の形のまま残る本陣は資料館として公開され、江戸時代に
使われていた生活用具や風習を垣間見ることができます。
一般的に宿場町の発展は参勤交代とともにあったと理解されて
いますが、ここはすでに江戸時代以前の戦国時代から奥州への
重要な街道であったようで、記録によると、天正18年(1590年)
小田原参陣の際に伊達政宗が、同年、奥羽仕置きの際には
豊臣秀吉が大内宿を通行したと言われています。
あの伊達政宗や豊臣秀吉もこの地を踏み、茅葺屋根が並ぶ通りを
歩いたのかと思うと、ちょっと不思議な気分ですね。


入り口からまっすぐに伸びる通りに沿い、両側に四角い茅葺屋根
の家屋が整然と並ぶのですが、日本の古い町並みにしては道幅が広く、
家屋と家屋の間も等間隔にスペースがとられているので、
いわゆる日本の古い町並みとはまた一味違った風情を楽しめます。

集落の奥には神社があり、民家の軒先には大根や餅が干してあり、
ここが単なるセット村ではなく住民たちの生活の場である感じが
ひしひしと伝わってきます。
背景には見渡す限り山々が続き、集落から眺める風景はきっと
江戸時代からそう変わっていないのだろうと思わずにはいられません。

めまぐるしく変貌を遂げる現代の日本において、本当にこんな
場所が残されているのはもはや奇跡とも言えるもの。
よくぞ、ここまで完璧な形で集落を保存維持してくれたと
拍手を贈りたくなります。まだまだ日本も捨てたもんじゃありません。
近代から現代への歴史の中で、ほとんどの古い集落が時代の
移り変わりとともにその容貌も変化を余儀なくされてきたのに対し、
このように大内宿がほとんど完璧な形のまま姿をとどめて
きたことに実はいくつかの理由がありました。
ひとつは1680年に幕府の取り締まりにより、会津藩の参勤交代が
なくなってしまったこと。参勤交代廃止により幕府と会津を
行き来する藩士たちのニーズがなくなったことは宿場町に
とって大きく、そのあたりに大内宿がのちに「半農半宿」の
スタイルとなった根本があるように思いますが、参勤交代廃止後
も物資の流通や行商人の活路として宿場町の機能は保って
いたのです。
しかしながら、3年後の1683年に日光大地震が起き山崩れに
より街道は通行不能に。相次ぐ災難に見舞われた宿場町は、
もはや機能しなくなってしまったように思いますが、
街道は1723年に復旧を迎えます。街道が閉ざされていた間、
大内宿の人々は農業を営み復旧後も「半農半宿」が住人の
間には定着しました。
街道の復旧によりようやく宿場町としての機能が戻ったのですが、
1884年に日光街道が開通。新街道の開通により大内宿は完璧に
宿場町としての歴史に終始府を打つこととなったのです。
宿場町として複雑な歴史を歩んできた大内宿ですが、多くの
宿場町が昔の風景を失って久しい中、大内宿が鮮やかにその面影
を保持し続けたのは、三方を山に囲まれた深い山あいの地に位置
するこの辺鄙な地理的立地によるものと言ってよいと思います。
外界との往来が遮断された大内宿は近代から現代へと世の中全体
が大きく移り変わった時代、ある意味時代に取り残された存在で
あったに違いありません。
けれども、時代に取り残されたからこそ貴重な建造物が取り壊
されることなくそのままの姿で生き延びたのです。
大内宿でも一時は近代化を望む人たちと、茅葺屋根の風景を
残そうという人たちと意見が二分したりもしたそうですが、
1981年に国の「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定された
ことで保存活動が進み、現在は「売らない・貸さない・壊さない」
の三原則に基づき、住民が一段となり伝統的な屋根葺き技術の
伝承に取り組んでいるそう。
現代、大内宿は年間10万人もの観光客が訪れる観光スポットと
なっています。民家は民宿や土産物や、食事処へと様変わりし、
宿場町時代の賑わいを取り戻しているのではないでしょうか。
江戸時代と大きく違うのは、訪れる人たちの姿に外国人が大勢いること。
近年の外国人観光客の増加はもちろんここ大内宿にも及んでいて、
英語や韓国語・中国語の地図も用意されるようになりました。
冬のこの時期は真っ白に染まった雪景色の集落が一段と
ロマンティックに映え、雪見ツアーも人気を呼んでいるよう。
ちなみに、名物は長ねぎが一本丸ごとどーーーーんとのった「ねぎ蕎麦」。
ねぎを箸代わりにして食べるという変わったお蕎麦で、
言うまでもなくビジュアルのインパクトは相当でインスタ映え
間違えありません。

ずらりと並ぶ土産物屋で甘いものなどあれこれ食べ歩きしながら
散策を楽しむというのが定番のお楽しみです。
浅草から東武線で「湯野上温泉駅」へ、そこからバスで行くことも
できるのでアクセスも上々。思い立ったら江戸時代へタイムトリップ
私は日本国内では四国に行った事がなかったのです。
勤めをしている頃、その会社で一番の美人と付き合う寸前だった
のです。社員2000人と言う中規模会社の総務部に彼女は
所属していました。
私がカメラをやっていることは私の居る本社の人間なら
殆どの方は知っていました。
時々休みの日にその彼女をモデルにあちこちの公園等に
撮影に行ったのです。
1週間ほど顔を見ないと思ったら、彼女は四国の金比羅様の
大きなお札を「ハイ、これお土産」と言って私にくれたのです。
それから1ヶ月ぐらい彼女の姿が見えないので、総務部の
人に聞くと結婚する為に会社を辞めたということでした。
そんな辛い?想い出のある四国なんかに行くものかと
今日まで行っていないと言うことは、もう多分来世で行くしか
なさそうです。
世界中には数限りなく良い所があるのでしょうが、日本国内
だって良い所が沢山ありそうですね。
そう今居るフィリピンだって沢山あるでしょう。
機会があったら行ってみたいものです。
