明智左馬助光春

天正9年(1581)丹波福知山の城主となった。天正10年6月2日、光秀とともに本能寺で織田信長を討つ。

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天正10年6月13日、山崎の一戦で光秀の敗死を知り、守っていた安土城

天守を出て、本城坂本に琵琶湖を渡って入り、同14日、攻めよせた堀秀政

の軍に重宝の数々を送りつけ、光秀の妻子を殺し、自らも自刃した。

推定46歳。


まずは明智秀満(光春)の「出自」からご案内したい。
出自は諸説ある。

明智秀満は当初、三宅弥平次と名乗っていた。その為、出自は三宅氏とする説がある。

明智光秀の家臣として三宅氏は複数の存在が確認できる。また明智光秀の叔父・明智光廉が三宅氏を名乗ったとも言われている。

明智秀満の父は三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。

「明智軍記」などでは、明智秀満は明智氏の出身としている。

明智光秀の叔父である明智光安の子と、明智光秀とは従兄弟であり、
別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

遠山氏説は、明智秀満の父・明智光安が美濃・明知城主である遠山景行と同一人物だとする説で、それを参考に遠山景行の子・遠山景玄が、明智秀満だとしている。

遠山景玄は1572年の上村合戦で討死しているとされ、矛盾点もあるが、遠山景行の妻が三河・広瀬城主の三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだとも考えられる。

いずれにせよ実名は明智秀満で、生年は1536年? 1557年? とも。
当初は三宅弥平次と称し、後には明智弥平次とも名乗っている。
また、別名としては明智光春、明智満春、明智左馬助(明智左馬之助)との名も。
幼名は岩千代、その後、改名して光俊とも? 他にも別名がある。

「明智軍記」によると、明智秀満は明智嫡流・明智光秀の後見として、長山城の父・明智光安に従っていたが、1556年、斎藤道三と斎藤義龍の争いにて斎藤道三に味方した為、斎藤義龍勢に攻められ落城し、父・明智光安は自害するが、明智秀満と明智光秀らは脱出し浪人したとされる。

いずれにせよ、斎藤利三らと共に明智光秀の家臣として大きく貢献した。

荒木村重の謀反の折り、荒木村重の嫡男・荒木村次に嫁いでいた、明智光秀の娘・お倫が離縁し、坂本城に戻った。
明智光秀の重臣として仕えた明智秀満は、しばらくして、そのお倫を正室(継室?)に迎えている。
その後、明智秀満は明智姓を名乗ったのだが、文書的に確認できるのは1582年4月なので、その直前に結婚したとも考えられる。

1581年には、丹波・福知山城代。

1582年6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討つ際には、明智秀満が先鋒となって本能寺を襲撃した。

明智光秀が、織田信長を討つ際に最初に相談したのが、この明智秀満だとされ、その際には思い留まるよう説得した。

しかし、その後、斎藤利三など、他の家臣にも相談した結果、皆、同じ意見だったので思い留まったと明智光秀が話すと、一転して織田信長を討つことを主張した。

理由としては、複数以上の者と相談したとなると、いずれ「織田信長の耳に入る」ことを懸念し、そうなる前に実行した方が得策だと言う事である。

本能寺の変じたいは成功をおさめたが、その後、羽柴秀吉が迫って来た際には、山崎の戦いには参加せずに、柴田勝家・滝川一益らの備えとして、安土城を守備。



しかし、山崎の戦いで明智光秀が敗走したと聞くと、後詰めとして出陣し、出浜まで進出していた堀秀政と合戦となったが敗れて、明智勢の本拠地・坂本城に退いた。

その坂本城も、堀秀政勢に包囲されると、明智光春(秀満)は、明智光秀が所有していた天下の名物・財宝をまとめて、目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろし、明智が私利私欲の為に織田信長を討ったのではない事を証明した。
 
「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫び、宝物を引き渡したと言う。

その後、堀直政・堀秀政が「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返した。
すると「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と明智秀満は返事し、掘秀政・堀直政らも納得したと言う。

そして、1582年6月15日の夜、明智秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、明智光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら坂本城に火を放って自害したとされる。 享年は俗書に従えば47。享年26説も?
同年に処刑された明智秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

徳川家康の側近・南光坊天海が明智光秀とする説があるが、明智秀満であると言う説も存在する。


    この明智左馬助光春というお方は私とは抜き差し

    なら無い間柄にあるお方です。

    詳しいことは私の胸のうちに。


    しかし、すごい方ですね。

    主君を光秀が打つと言った時には止めたのに、その事を

    大勢の方に相談したと知るや、こうなったら何時主君の耳に

    その事が入るか判らない。

    已む無くこうなった以上、打つしか無いという判断。

    きっとその後も想像できたのでしょう。

    そして、いよいよ駄目だと言う時には国家の財宝とも言うべき

    物を追っ手に差し出す余裕すらあったのです。

    これぞ日本人魂ではありませんか!

    私財を投げ売って、貧乏国のためになるのも日本人魂。

    明智左馬助光春のように死に直面していても、前述のような

    事の出来るのも、日本人魂。

    そういう心を日本人なら持ち続けたいですね。