この国に住んでいて、殆どこの国のことは知らない私ですが

    日本にいる時からコイン集めが趣味の一つでした。

    と言っても金持ちではないので、お札集めが出来なかっただけ

    です。

    知人・上司が海外に行く度に、お土産はコインを頼みました。

    そんな訳で結構海外のコインは集まりました。

    フィリピンでも続いています。

    この国の人は海外出稼ぎ(OFW)の方が結構います。

    知人や身内が海外出稼ぎに行く場合には、今度帰るときには

    その国のコインをお土産ね!

    しかし、私にとってはくだらない結構金のかかるお土産ばかりで

    肝心なコインを持ってきた者は一人も今のところいません。

    義弟等は何回も海外出稼ぎに行っているのに、その度に

    「今度帰るときはコインね!」と言ってもすっかり忘れて、ただの

    一度も持って帰った事がありません。

    散々世話をかけているのに・・・


    まあ愚痴はそのぐらいにしておいて、私が手持ちのフィリピン

    コインには古い物から新しい物まで、この国の偉人等の肖像が

    刻まれた物が多くあります。

    勉強不足の私には”この人だあれ”と言う方もいます。

    連れ合いに聞いても「エイワン?」

    よく我が家にいる、子供たちに勉強を時々教えている姪っ子に

    聞くと刻まれた名前を見て~~~と言うだけです。

    この際だから簡単に刻まれている方の経歴も調べてみました。

    では、


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革命の頭脳であり崇高な障害者
アポリナリオ・マビニ

   1864年7月23日バタンガス州タナワンの貧農の子として生まれた
   マビニは、1896年に患ったポリオが原因で若くして下肢麻痺と
   なったが、このことが国に貢献して身を捧げる障害とは決して
   考えなかったため「崇高な障害者」と呼ばれた。

  1881年に特別奨学生としてサンファン・デ・レトラン大学に入学、
   1888年から1894年にかけてサント・トーマス大学で法律を学んだ。
  マビニの初期の政治的活動は、リサールが1892年に結成した
   「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン人同盟)」を復活させた事に
   始まる。アギナルド大統領は彼の才能を認め首席顧問に任命した。
   彼の思想はフィリピン共和国の憲法および政治的基礎となり、
   このため「革命の頭脳」とも呼ばれた。

  1896年に革新主義者との関連で逮捕されたが、当時ポリオで両足が
   麻痺していたため病院で逮捕後自宅軟禁とされた。彼は身体的制約
   から第一期の革命には参加できなかった。

  1898年2月の米比戦争勃発の際にヌエバエシハ州へ逃れたが、12月
   クヤポで米軍に逮捕され1900年まで捕虜収容所で過ごした。
  その後彼はナグタハンの小さなニッパ・ハウスに住み、地方新聞に
   記事を書いて生計を立てていた。一時グァムに追放されたが帰国後
   の1903年5月13日にコレラで死亡した。


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    ボニファシオの肖像はいくつにも使われているようです。


フィリピン革命の父
アンドレス・ボニファシオ

   マニラ市トンドのスラム街に生まれたボニファシオは、史上初めて
   革命を目指した「カティプナン(KKK)」と呼ばれる秘密組織を結成
   したことから「フィリピン革命の父」といわれる。

  高校を卒業することはできなかったが、頭脳明晰で外国小説の他に
   フランス革命、政治、法律、宗教に関する書物を読み一般市民が持
   つ自由という権利がいかに重要かを学んだ。

  ボニファシオはリサールが組織した「ラ・リガ・ピリピナ
  (フィリピン人同盟)」に加わったがすぐにリサールは流刑となった。
   平和的改革運動ではフィリピン人が自由を獲得することはできないと
   悟ったボニファシオは武力革命こそがスペインの支配からフィリピン
   を解放するものだと確信、リサールや他の改革運動家と違って
   スペインから完全に独立すべきだと考えた。

  1892年、リサールが流刑となった日に3人でカティプナンを結成、
   その存在が当局に露見するころにはメンバーは10万人規模に成長して
   いた。1896年、カティプナンのメンバーがマニラ郊外バリンタワクで
   反乱の証としてセドゥラス(住民税証明書)を破り、ボニファシオは
   武力闘争を宣言した(バリンタワクの叫び)。現在、ケソン市バリン
   タワクに記念碑がある。

  革命闘争が広がりをみせる中、軍事的才能で英雄となったアギナルド
   との主導権争いに敗れ、カビテ州マラゴンダンで軍事裁判に掛けられ
   反逆罪で1897年5月10日に仲間の手で処刑された。


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    マビ二とボニファシオ


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    ボニファシオを処刑した第一代大統領、アギナルド

革命の最高指導者(初代大統領)
エミリオ・アギナルド

   1869年3月30日カビテ州カウィット町で生まれたアギナルドは、
   サンファン・デ・レトランで学んだ後にボニファシオのカティ
   プナンに加わり、軍事的才能を発揮してスペイン軍を次々と破
   って名声を得る。

  1897年、革命政府の主導権を握ったアギナルドはカビテ州の
   テヘロス会議において反逆罪でボニファシオを有罪として処刑。
   憲法を制定してビアクナバト共和国を発足させる。
   スペイン軍との戦いが膠着状態に入るとビアクナバト協定を結び
   停戦、香港に亡命する。

  アギナルドは米西戦争勃発を機に帰国して革命戦争を再開、
   1898年6月12日にカビテ州カウィットの自宅で独立を宣言。 

   翌年1月23日、アギナルドは若干30歳でフィリピン共和国初代大統領
   に就任、議会を招集しマロロス憲法を批准、第1次共和国を樹立する。
  しかし、翌2月にはスペインからフィリピンを譲り受けたアメリカとの
   間で米比戦争が勃発、北部ルソンに後退しつつゲリラ戦を展開するも
   遂に1901年3月、イサベラ州パラナンで逮捕されアメリカの主権を認め
 た。
  第二次大戦後の1946年7月4日、第3次共和国が成立して独立が宣言さ
 れた日のパレードでアギナルドは国旗を振った。1964年2月6日死去。



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プロパガンダ運動の指導者の一人 、
マルセロ・デル・ピラール、

   1850年に生まれ,1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社
  「団結」が結成され,マドリードでスペイン在住のフィリピン人留学生
   たちを組織してプロパガンダ運動を始める。

 プロパガンダ運動の指導者はリサール、マルセロ・デル・ピラール、
 ポンセの3人がいた。1896年にスペインのバルセロナで死んだ。


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    あまりにも有名なリサール

ただ一人のナショナルヒーロ
ホセ・リサール

   1861年6月19日ラグナ州カランバ町に生まれたホセ・リサールは
   アテネオ・デ・マニラ文学部、サント・トーマス大学医学部に
   学んだ後スペインに渡り医学、哲学、文学を学ぶためマドリード
   中央大学の門をたたいた。リサールは愛国的な作家であると同時に
   彫刻家、眼科医、言語学者、発明家、画家でもあった。

  リサールの愛国的小説「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」
   や「エル・フィリブステリスモ(反逆=邦訳:反逆・暴力・革命)」
   は平和的手段によって圧制者と戦う多くのフィリピン人を勇気づけた。
  リサールは1887年に一度フィリピンに戻ったが、彼の小説にスペイン人
   司祭が激怒しているため国を離れろという忠告を受けて翌年再び欧州
 に 向けて出国した。この途中、リサールは日本に1ヶ月半ほど滞在して
 いる。

  1889年、国外追放された仲間がマドリードで発行している機関紙「ラ・ソ  
  リダリダッド」に寄稿、自由思想を高揚させた。
  1892年、再びフィリピンに戻り平和的な手段による改革達成を目指す
   「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン人同盟)」を結成した。メンバー
   にはアンドレス・ボニファシオやアポリナリオ・マビニもいた。
   しかし、直後に当局に捕らえられ流刑となる。

  リサールは、著作を通じてスペイン人圧制者と戦い武力闘争を奨励し
   なかったが、結局反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され
   1896年12月30日にバグンバヤン広場(現在のリサール公園)で銃殺
   された。


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    ルナの肖像を使った物も数種類あるようである。

19世紀最高の画家であり革命家
ホアン・ルナ

  1857年10月23日北イロコス州バドック町で生まれたルナは1874年
   アテネオ・デ・マニラ大学文学部を卒業。彼は船員を経て1877年
   にマドリードへ渡り美術アカデミーで絵画を学び、後に最高の
   フィリピン人画家と認められた。

  1881年、マドリードの美術博で彼の作品「クレオパトラの死」が
   銀賞を受賞。その後1884年には「スポラリウム」が同じ美術博で
   金賞を受賞した。さらに、1888年のバルセロナ博では「レパント
   の戦い」が金賞を受賞。最後の作品として知られるレガスピと
   シカツナの盟約を描いた「エル・パクト・デ・サングレ」は、
   1885年のパリ万国博で金賞を受賞した。

  1886年にフランスで結婚するも盲目的な怒りから1892年に妻と義母
   を殺害。しかし翌年、裁判で無罪となった。
   1894年、18年留守にしていた祖国に帰国するが2年後の1896年初頭
   には今度は日本に出発。同年「バリンタワクの叫び」の数週間後に
   帰国し、9月には「カティプナン(KKK)」との関わりを疑われ投獄
   される。翌年恩赦により解放されスペインに逃れる。

   1898年の革命政権下ではパリの特使として任命を受けている。
   弟の死の知らせを聞き急遽香港に戻るが、1899年12月7日心臓マヒ
   のため死去。

  
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革命を陰から支えた「革命の母」
メルチョラ・アキノ

   1812年1月6日生まれのアキノは、一般に「タンダン・ソラ
   (ソラばあさん)」として知られ「フィリピン革命の母」といわれる。
  彼女は裕福な家庭に生まれ、カティプナンのメンバーを財政的に支え
 た。
   1896年にボニファシオと彼の部下が自宅に来た際には数百袋のコメと
   10頭の水牛、その他必需品を与えた。また、待避所として25ヘクタール
   の土地を提供、負傷兵や病人の看護にあたる一方、食糧を与えて革命
 軍 を支援した。

  1896年、スペインは反乱罪で171人と共にソラばあさんをグァムに追放。
   米国統治時代にフィリピンへ戻った時は91歳だった。1919年2月20日、
   107歳の長寿を全うした。



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    少々変わり種としては、家族の肖像を使った物もある。



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    そして蝶々のデザインの物も。

   
    ここに紹介したものは手持ちのコインのいくつかであるが、

    これをきっかけに、多少の勉強にはなった。 

    ご存知の人が多いでしょうが・・・