イメージ 3
広島の県花、夾竹桃



     今の世の中には大変ありがたい事に、インターネットなるもの

    があり、様々な情報を集める事が出来る。

    しかしそれらには、真実から逸脱した情報も多々ある。

    私が取り上げる話題は、政治の事に関するものが多いので

    余計事の真贋を見極めるのが難しい。

    私自身は能力が無いので全てを調べる事は出来ない。

    筆者が真剣に書いていると思われるものを取り上げるだけで

    あるので間違いの部分もあるかも知れない。

    読まれる方で、そういう事に気がつかれた方は是非とも教えて

    いただきたい。

    私にも勉強になるのでそうお願いしたい。


    参考記事を転載させていただきます。

     この記事は大変に長い、何回かに分けて掲載させていただき

    ます。


「原爆ホロコースト」の実態

~ 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 ~
 
 
ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、
壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、
まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしい
アメリカが犯した戦争犯罪であった…

最初に断っておくが、当館(ヘブライの館)は、ユダヤ研究をメインにしているので、今回、原爆の問題を扱う際にも、ユダヤに関する考察が多くなっている。そのため、ここで紹介される原爆とユダヤのつながりに、少なからずの抵抗(とまどい)を感じる人もいるだろうが、原爆の問題を別の角度から考えるいい機会だと思って読んでほしい。また当館は、「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはない。


第1章:「マンハッタン計画」とユダヤ人科学者

●戦後のアメリカの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産官学複合体)を生み出す大きなきっかけとなったのは、「マンハッタン計画」である。
「マンハッタン計画」とは、第二次世界大戦中にアメリカが極秘にスタートさせた原爆開発計画のことである。5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
この軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」は、多くのユダヤ人科学者が参加したことで知られている。具体的にみてみよう。
 
 
●まず最初は、「コンピュータの父」として知られるフォン・ノイマンである。
彼はハンガリーの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、1930年に渡米。天才的頭脳の持ち主であり、現在のほとんどのコンピュータの動作原理であるストアードプログラム方式を考案した。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者で、現在使用されているコンピュータは「ノイマン型コンピュータ」と呼ばれる。また、彼はゲーム理論におけるミニ・マックス法の発明者としてや、自己増殖オートマトンの考案、量子力学についての研究でも知られている。
大戦中は「マンハッタン計画」の軍事顧問として参加。
爆縮レンズ開発に従事し、爆薬を32面体に配置することにより核爆弾が製造できることを10ヶ月に渡る計算により導いた。また、地面ではなく空中で爆発させたほうが原爆の破壊力が増すことも計算により導いた。
その圧倒的な計算力と、極めて広い活躍領域から、「悪魔の頭脳」と評された。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Von_Neumann.jpg
コンピュータの父、フォン・ノイマン

大戦中は「マンハッタン計画」の軍事顧問
として参加し、原爆の開発に貢献した
 
●次は、レオ・シラードである。彼もハンガリー生まれで、アメリカに亡命したユダヤ人科学者である。
彼は原爆のアイデアを思いつき、同じユダヤ人でドイツからアメリカに亡命したアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す手紙=「アインシュタイン書簡」(1939年8月)を送ったことで有名である。この手紙がきっかけとなって、アメリカの原爆開発はスタートしたのだ。
ちなみに、シラードがアインシュタインに自分のアイデア(核連鎖反応)を話したところ、アインシュタインは「考えもしなかった」と驚いたという。アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから2週間悩んだすえに、署名したのだった。
アインシュタインは手紙に署名しただけで、「マンハッタン計画」には参加していない。彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Leo_Szilard3.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/einstein_letter.gif
ユダヤ人科学者アインシュタインとレオ・シラード

シラードはアインシュタインを説得して、ルーズベルト大統領宛に
原爆開発を促す「手紙」(右)を送った (1939年8月)
 
●同じくハンガリー生まれで、アメリカに亡命したユダヤ人科学者にエドワード・テラーがいる。彼はハンガリーからドイツに移り住んでいたが、ヒトラーの迫害を恐れたためイギリスを経てアメリカに亡命して「マンハッタン計画」に参加した。
(エドワード・テラーは1939年、アインシュタインの別荘をシラードとともに訪れていた)。
そして、彼は誰よりも早く、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた「超強力爆弾」(水素爆弾)へと核兵器を発展させるべきだと主張し、戦後、積極的に「水爆計画」に携わった。そして、1952年にソ連より半年早く水爆実験に成功し、「水爆の父」と呼ばれた。その後、「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任。
1954年に行なわれた水爆実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、エドワード・テラーの作品であった。
※ ちなみに、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』のモデルは、エドワード・テラーだといわれている。(※ ノイマンがモデルという説もある)
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Edward_Teller.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/SDI.jpg
(左)原爆・水爆・SDIの父、エドワード・テラー
(右)彼のアイデアで生まれた「SDI(戦略防衛構想)計画」

テラーは「マンハッタン計画」に参加した最初の科学者の一人であった。
「マンハッタン計画」では、テラーは最初シカゴ大学でシラードと共に働いた。
1943年、彼は「ロスアラモス研究所」の理論物理学部門のグループ長になったが、
彼が水爆に熱中したため他の科学者、特に部長のハンス・ベーテと不仲になった。

戦後、テラーは防衛力強化政策を辛抱強く唱え、水爆の開発と核爆発実験の継続を
求め続けた。テラーはアメリカ歴代政権の核戦略、防衛政策に影響力を行使し続け、
1980年代のレーガン政権時代には「SDI(戦略防衛構想)計画」を推し進めた。
 
●このエドワード・テラーは、1980年代のレーガン政権時代には「SDI(戦略防衛構想)計画」を推し進め、「SDIの父」とも呼ばれるようになる。「電話一本で話ができる間柄」と評されるほどテラーとレーガンの関係は親密だった。レーガン政権の「科学顧問」はテラーの愛弟子が務めた。
レーガン大統領はアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」をテラー博士に贈った。

※ この「SDI計画」はブラックホールさながらに 300億ドル以上という天文学的な額のカネを呑み込み続けただけで、何一つ使途が明らかにされないまま1993年5月に中止されてしまった。が、「SDI」は死ななかった。この「SDI」は「BMD(弾道ミサイル防衛)」という名前に変え、ペンタゴンに新設された「弾道ミサイル防衛局(BMDO)」の下に移管され、しぶとく生き残り、現在もアメリカ国民の税金を食い続けている。
「BMD」の中核には「TMD(戦域ミサイル防衛システム)」や、アメリカ本国を守る「NMD(国家防衛システム)」なるものがあるのだが、中でも「TMD」は日本が参加するのかしないのかで注目されている。もし参加したら数兆円もの日本人の血税がアメリカに流れると言われている。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/sdi_USA.gif http://inri.client.jp/hexagon/img/new_SDI.gif
この記事からもわかるように、「SDI」は死んでいない。
「ミサイル防衛」という名のもとで、指向性エネルギー兵器の研究や
宇宙の軍事利用は今後、ますます活発化していくだろう。
 
●さて、話を「マンハッタン計画」に戻そう。
同じくハンガリー生まれで、アメリカに亡命して「マンハッタン計画」に参加したユダヤ人科学者に、ユージン・ウィグナーがいる。彼は「原子核反応理論」で1963年にノーベル物理学賞を受賞した。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Eugene_Wigner2.jpg
ユージン・ウィグナー

1963年にノーベル物理学賞を受賞
 
●今まで紹介したユダヤ人科学者、フォン・ノイマンレオ・シラードエドワード・テラーユージン・ウィグナー……。
こうして並べてみると、ハンガリー生まれのユダヤ人科学者が「マンハッタン計画」で大きな力になっていたことが分かる。特にシラード、テラー、ウィグナーの3人は、原爆開発の発端となった「アインシュタインの手紙」の作成に直接関わった「ハンガリー3人衆」である。
もちろん、ハンガリー系以外にも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者は大勢いる。有名なところでは、「ロスアラモス研究所」の所長に就任して「マンハッタン計画」を主導したロバート・オッペンハイマーである。(彼はニューヨーク生まれのユダヤ人である)。

ロバート・オッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物である。彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけを論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。
彼は戦時中、日本への原爆使用に反対した科学者たちを巧みにのけ者にしていった。そして、1945年7月に、ロスアラモスで最初の原爆実験に成功した際、狂喜して、「いま私は死神になった。世界の破壊者だ!」と叫んだ。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Robert_Oppenheimer.jpg
ロバート・オッペンハイマー


「ロスアラモス研究所」の所長を
務め、「マンハッタン計画」を主導した。

「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」
と主張し、原爆の対日投下に反対した科学者たちを
巧みにのけ者にしていった。戦後は水爆に
反対し、エドワード・テラーと対立。
 
●しかし、オッペンハイマーは、戦後は核開発、特に水爆に反対するようになり、水爆の開発をめぐって、推進派のエドワード・テラーと激しく対立したことで知られている。
彼は、1945年10月に、ロスアラモス研究所の所長を辞任する際、「人類がロスアラモスと広島の名を呪う時が来るだろう」という言葉を残している。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Los_Alamos.jpg
ニューメキシコ州アラモゴードの核実験場

1945年7月16日、人類史上初めての
「核爆発実験」が行なわれた
 
●オッペンハイマーと同じく、ニューヨーク生まれのユダヤ人科学者、リチャード・ファインマンも、大戦中、「マンハッタン計画」に携わり、重要な役割を果たした。彼は量子電磁力学におけるくりこみ理論で、1965年にノーベル物理学賞を受賞した。
ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人科学者、ハンス・ベーテも、「マンハッタン計画」に携わった。彼は、ファインマンの良き指導者となり、ロスアラモス研究所の理論物理学部門の責任者(初代理論部長)を務め、疲れを見せない研究への没頭ぶりから「戦艦」と称された。戦後は、歴代アメリカ大統領の核兵器問題担当上級顧問を務め、核融合の研究で、1967年にノーベル物理学賞を受賞した。
ファインマンとベーテの2人はチームを組んで、爆発を起こすのに必要な核分裂しやすい材料の量など、鍵となる数学方程式を考え出した。ファインマンの才能の1つは、数式を頭の中で早く解くことができるということであった。ファインマンとベーテは、三次方程式が早く解ける短絡解法を編み出したことでも知られている。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Richard_Feynman.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/Hans_Bethe.jpg
(左)リチャード・ファインマン。1965年にノーベル物理学賞を受賞。
(右)ハンス・ベーテ。1967年にノーベル物理学賞を受賞。

2人はチームを組んで、爆発を起こすのに必要な
核分裂しやすい材料の量など、鍵となる
数学方程式を考え出した
 
●ノーベル化学賞受賞のハロルド・ユーリーも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。
彼は1934年に「重水素」発見の功績によりノーベル化学賞を受賞し、第二次世界大戦ではその功績を買われて「マンハッタン計画」に参加。ウランからウラン235のみを得るための「気体拡散法」を開発し、原子爆弾の実現に大きな貢献をした。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Harold_Urey.jpg
ハロルド・ユーリー

戦後は、核科学研究所や
カリフォルニア大学の教授を歴任した。
1934年にノーベル化学賞を受賞。
 
●1925年にノーベル物理学賞を受賞したジェームズ・フランクも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。
ドイツからアメリカに亡命した彼は、オッペンハイマーと違って、実戦使用される前から原爆の対日投下に反対していた。彼は大戦末期の1945年6月11日に、対日戦での原爆の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を政府に提出したことで知られている。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/James_Franck.jpg
ジェームズ・フランク

1945年6月11日、対日戦での原爆の
不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を
アメリカ政府に提出したことで知られている。

彼はこのレポートの中で、原爆の威力を各国の
前でデモンストレーション(砂漠か無人島にて)で示す
ことにより戦争終結の目的が果たせると提案していたが、
この提案は政府に拒絶された。また彼はこのレポートで
「核兵器の国際管理」の必要性をも訴えていた。

1925年にノーベル物理学賞を受賞。
 
●先に紹介した、最初に原爆製造を進言したユダヤ人科学者レオ・シラードも、ナチス・ドイツの敗北が決定的になると、原爆の実戦使用(対日投下)に反対するようになった。
シラードにとって「原子爆弾」とは、ナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用するためのものではなかったのだ。
1945年3月、シラードは、アインシュタインと会い、再び大統領への手紙にサインするよう求めた。原爆の対日投下を阻止しようと、シラードは、大統領に働きかけるつもりだった。原爆開発を進めるにも、原爆投下を止めるにも、アインシュタインの名声が必要だったのである。アインシュタインは、再びシラードの意見に同調しサインした。
しかし、効果はなかった。
シラードは対日戦争での原爆使用に対して最後まで「反対請願」を展開したが、時すでに遅しだったのである。(戦後、シラードは、分子生物学へ転向した)。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Leo_Szilard.jpg
レオ・シラード


 彼は最初に原爆製造を進言した男だが、
ナチスの脅威が去ると、対日戦争での
原爆使用に対して、最後まで
「反対請願」を展開した
 
●「近代量子論の父」で同じくノーベル物理学賞受賞のニールス・ボーアも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。(彼は、アインシュタインにつぐ、20世紀で最も影響の大きかった物理学者で、「近代量子論の父」と世界的に認められている)。
ボーアは大戦中、アメリカに渡り「マンハッタン計画」に参加した。しかし、彼は原爆が日本に投下される前に、その巨大な破壊力がいかに恐ろしい惨禍をもたらすかを誰よりも早く悟っていた
戦争が連合国側の勝利に終わると、ボーアは祖国デンマークに戻り、その後の人生を、「超大国が責任を自覚し、核エネルギーを適正に管理し、平和利用に専心するように促すこと」に捧げた。
しかしその努力は、実を結ぶことはなかったのである。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Niels_Bohr.jpg
近代量子論の父、ニールス・ボーア

1922年にノーベル物理学賞を受賞。

核エネルギーの「軍用化」には
反対の立場をとっていた。
 
●結局、原爆開発に関わる科学者たちを駆り立てた「戦争早期終結論」は、広島に続く「長崎」への原爆使用によって、「ドイツ原爆対抗論」と同様に虚構の理論であったことが明らかにされた。

最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたことが判明している。
大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。
原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/joseph_stalin4_2.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/berlin_1945_4_30_2_b.jpg
(左)ヨシフ・スターリン (右)激戦の末、ベルリンの帝国議会の
ドームに翻ったソ連国旗(1945年4月末)
 
●ちなみに、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。
しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。

●一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。
アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『京都に原爆を投下せよ ― ウォーナー伝説の真実』(角川書店)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。
 
京都・奈良・鎌倉など、貴重な文化財の残る日本の古都が
アメリカ軍の空襲を免れたのは「その価値を認めてくれたからだ」
という「定説」は全くのデタラメだった。それどころか、京都は
第3の原爆投下目標の1つだったのである。この本は
その証拠を丹念に洗い出し、この俗説が流布・
信奉された理由を暴いている。
 
●ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Franklin_Roosevelt.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/img_book/book_John_Dower.gif
(左)「マンハッタン計画」をスタートさせた、
第32代大統領フランクリン・ルーズベルト。
強烈な親中反日主義者であった。

(右)『人種偏見 ─ 太平洋戦争に見る日米
摩擦の底流』ジョン・ダワー著(TBSブリタニカ)。

あまり語られることのない「人種戦争」の真相。
太平洋戦争における日米両国の憎悪の
構造を分析し、「人種主義」再生の
危険性に警鐘を鳴らす問題作。
 
●当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」
 
 
●ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/concentration_camps_J.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/concentration_camps_J2.jpg
アメリカに作られた日系人強制収容所。人里離れたアメリカの砂漠の中に
建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列。約12万人もの
日系民間人が財産と市民権を奪われて収容された。
http://inri.client.jp/hexagon/img/concentration_camps_J_girl.jpg
整理用名札をつけられ、
日系人強制収容所に送り込まれた少女
 
●この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。
彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Henry_Stimson.jpg
ヘンリー・スチムソン陸軍長官

「マンハッタン計画」の最高責任者。
広島と長崎への原爆使用を決定した彼は、
日系アメリカ人を強制収容所に送った最高責任者
でもある。戦後は、原爆投下に対する批判を
抑えるための「原爆神話」を生み出した。
 
●彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。
それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。
ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。
これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。


●さて、最終的に、2個の原爆が日本に「無警告」で投下されたことに満足したフォン・ノイマンは、戦後のビキニ環礁の核実験に立ち会ってガンになり53歳の短い人生を終えた。
また、全人口に対してユダヤ人口が5~6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた。機長のポール・ティベッツもユダヤ人である。広島に原爆を落としたとき、彼はまだ30歳だった。
ポール・ティベッツ機長をはじめ搭乗員の多くは、戦後もずっと「全く後悔していない。夜眠れなくなったことも一度もない。あの時、我々は人類にとって最善のことをしたんだ」と述べ、原爆投下の正当性を強調した。
このことからも、ユダヤ人の中には原爆の対日投下に反対する一方で(レオ・シラードなど)、日本に対して敵対的な感情を持つユダヤ人がいたことが伺える。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Paul_Tibbets.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/Paul_Tibbets2.jpg
(左)ユダヤ人ポール・ティベッツ機長 (右)B29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員たち

彼らは戦後もずっと「投下は間違っていなかった」と述べ、
原爆投下の正当性を強調した

http://inri.client.jp/hexagon/img/Enola_Gay.jpg
広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」

http://inri.client.jp/hexagon/img/A_bomb.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/A_bomb2.jpg
(左)広島に投下されたウラン型原爆 「リトル・ボーイ」
(右)長崎に投下されたプルトニウム型原爆 「ファット・マン」
 
●ところで、アメリカのユダヤ人には、猛烈な反日ユダヤ人もいれば、日本の文化を愛する親日ユダヤ人もいる。
現在も、日本に何の興味も持たないユダヤ人もいれば、「日ユ同祖論」を信奉する強烈な親日家もいる。また、アジアの中では日本よりも中国(華僑勢力)との友好を求めるユダヤ人もいるし、アジア勢力全体を嫌悪するユダヤ人もいる。
アメリカのユダヤ人は、親日家と反日家含め、実にさまざまな人間がいるといえよう……。


●ちなみに、アインシュタイン博士親日ユダヤ人として知られている (1922年に日本に来ている)。
1945年8月、アメリカ軍が日本に原爆を投下したニュースを聞いたとき、彼は「ああ、何ということか!」とうめいたという。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Albert_Einstein_tokyo.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/Albert_Einstein_book_kaizou.gif
アインシュタイン博士は、1922年11月16日に初来日して43日間日本に滞在した。
博士は来日途上の船中で、「ノーベル物理学賞」受賞決定の電報を受け取った。

(左)の写真は、東京大学の物理学教室で講演するアインシュタイン博士。
(右)は、博士の来日を特集した雑誌『改造』(1922年12月号・改造社)。
この改造社の山本実彦社長が、博士を日本に招いたのである。
 
●先に触れたように、アインシュタイン博士は「マンハッタン計画」に参加しておらず、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す「手紙」に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
1952年に雑誌『改造』へ「日本人への弁明」を寄稿。
1955年には、核兵器の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名。その1週間後に動脈瘤破裂のため、76歳の生涯を閉じたのであった。
(また、アインシュタイン博士は、パレスチナにユダヤ人国家「イスラエル」を建設するという「シオニズム」に理解を示していたが、権力や権威的なものは嫌いで、第2代イスラエル大統領への就任を辞退していた。彼は拡張主義の考えはなく、パレスチナ人と共存できると信じていたのである)。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Albert_Einstein2.jpg
アルベルト・アインシュタイン博士
(1879~1955年)

ドイツ出身の理論物理学者。
1921年度のノーベル物理学賞を受賞。
(受賞理由は「光電効果の発見」であり、
「相対性理論の発見」ではない)
 
 

 
■■第2章:ユダヤ人大富豪バーナード・バルーク

●「マンハッタン計画」の舞台裏を語る時に、忘れてはならない人物がいる。バーナード・バルークというユダヤ人大富豪である。
「バルーク家」はラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーで、ロスチャイルド家と深いかかわりをもち、彼は「アグダス=イスラエル・ユニオン」というユダヤ系結社の代表を務めていた。
バーナード・バルークは、相場の世界では冷徹な投資で巨額の資産を作った相場師として有名であり、政治家としても幅広く活躍した。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Bernard_Baruch.jpg
ユダヤ人大富豪
バーナード・バルーク
(1870~1965年)
 
●第一次世界大戦中は、アメリカの「国家防衛会議」に所属し、総力戦体制の遂行のために設置された「戦時産業調整委員会(WIB)」の委員長を務め、独裁的権力を振るった。1916年のウッドロー・ウィルソン大統領の選挙資金集めでも決定的な役割を演じ、戦争が終わると、ベルサイユ講和会議に参加し、「賠償委員会」の委員長を務めた。そして、法外な賠償金をドイツに支払うように決め、ロスチャイルド商会傘下の国際銀行家たちやダレス兄弟と組んで、ドイツにヒトラー政権が誕生する手助けをした。
彼は、その後も大統領顧問を務め、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンなど、6人から絶大な信頼を寄せられた人物だった。チャーチルの親友でもあった。(バーナード・バルークは「影の大統領」と呼ばれていた)。

●第一次世界大戦前、バーナード・バルークは100万ドルの資産を持っていたが、それが終わった時には2億ドルになっていた。ヒトラーが戦争を起こすと、彼はチャーチル、ルーズベルトと語らってアメリカを参戦させた。
バーナード・バルークは、第二次世界大戦中は、原爆開発の有力な支援者となり、「マンハッタン計画」を指導した。「マンハッタン計画」は、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行なわれる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。この計画の存在については大統領や陸軍長官など限られた関係者のみに知らされ、議会への報告などは一切行なわれなかった。
そして原爆が完成すると、バーナード・バルークは大統領顧問として、原爆の対日使用を積極的にすすめたのである。彼にとって、日本人の命なんてどうでもよかったのだろう。(彼は京都への原爆投下を主張していた)。


●戦争が終わると、バーナード・バルークは「国連原子力委員会」のアメリカの主席代表となり、原子力の管理に大きな影響力を持つようになる。彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者でもあったのだ。
1946年、バーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。
1947年4月、バーナード・バルークは「冷たい戦争(コールド・ウォー)」の言葉を初めて使用した。一般に、彼が「冷戦」の名付け親であるとされている。(ちなみに「鉄のカーテン」という表現を最初に口にしたのはチャーチルである。念のため)。

●このように、ユダヤの大富豪であるバーナード・バルークは、第一次と第二次の2つの世界大戦で重要な役割を演じ、「原爆」と「冷戦」の誕生にも深く関与していたのである。彼は戦争によって自分の資産を増やしていた。一部の研究家の間では、バーナード・バルークは「戦争仕掛人」と呼ばれている。(バーナード・バルークは1965年に亡くなった)。

◆ ◆ ◆

以上、見てきたように、原爆の誕生にはユダヤ人が大きく関わっている。これは否定できない事実である。
もちろん、対日使用に賛成の者もいれば、反対の者もいた。様々なユダヤ人が様々な「思惑」を抱いて関与していたのである。(念のために繰り返しておくが、当館は、「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはない)。
これら原爆に関わったユダヤ人たちに対する評価は、人によって大きく分かれると思うが、いずれにせよ、広島と長崎の悲劇は、アメリカ政府が犯した「戦争犯罪」だったことは確かである。(この件に関しては、次章で詳しく触れたい)。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/hiroshima_1945_2.jpg
原爆によって廃墟となった
広島中心部の様子 (1945年10月)
 
 

 
■■第3章:「戦争早期終結論」の虚構

●一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。
「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。
 
 
●しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。

●1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。


●1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。
そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。
つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。

●また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと結論づけていたのだ。


●原爆投下の決定を聞かされたアメリカ軍部の指導者の中には、嫌悪を催した者もいた。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。
「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」
アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/eisenhower.jpg
ヨーロッパのアメリカ軍司令官
ドワイト・アイゼンハワー将軍
(のちの第34代アメリカ大統領)

1945年7月20日に、彼は
「日本に対し原爆投下は不必要」と
 トルーマン大統領に進言していた。
 
●現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。
なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。
タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。
スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Joseph_Grew.jpg
ジョセフ・グルー

日米開戦時の駐日アメリカ大使。
開戦と同時に帰国し国務次官。1945年5月28日、
「天皇制を保証すれば日本は降伏するであろう」と
トルーマン大統領に進言していた。
 
陸軍次官補ジョン・マックロイは、1945年6月18日に開かれた「対日戦略会議」において、日本への原爆使用は「事前警告」した上で使用するべきだと主張し、
「無警告」による原爆投下に反対していた。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/John_McCloy2.jpg
ジョン・マックロイ

「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々
アメリカが所有していることを事前警告すべきである。
それでも降伏しなければ原爆を投下する、と日本政府に
伝えるべきだ」と主張し、「無警告」による原爆投下に反対した。

彼は、戦後1953年にロックフェラー財団の理事、
のちにロックフェラー系「チェースマンハッタン銀行」の頭取、
「セブン・シスターズ」の法律顧問、CFR議長を務めた。
 
●アメリカ極東軍司令官だったダグラス・マッカーサーは、1961年の書簡で次のように証言している。
「私は原爆使用については相談を受けなかった。もし相談を受けていたとすれば、それは不要である、日本はすでに降伏の準備をしている、との見解を表明していたであろう。」
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/Douglas_MacArthur.jpg
極東のアメリカ軍司令官
ダグラス・マッカーサー

1945年8月30日から約5年半、
GHQの最高司令官として
 日本占領に当たった。
 
●アメリカ海軍太平洋艦隊の空母機動部隊の司令官だったウィリアム・ハルゼーも、次のように述べている。
「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった
あのような兵器を、必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか?」
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/William_Halsey.jpg
ウィリアム・ハルゼー海軍元帥

彼は攻撃精神旺盛な性格で、
あだ名は「ブル(雄牛)」だった。

 日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!
敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」
など度々過激な発言を繰り返したことで
知られているが、日本への原爆投下
に対しては批判的だった。
 
●海軍元帥で当時の大統領主席補佐官のウィリアム・リーヒも、1950年発行の回顧録『私はそこにいた』で原爆は不要だった、と断言している。
「日本上空の偵察で米軍は、日本戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本降伏する用意があることも知っていた。
だが、トルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。
この野蛮な兵器を広島と長崎に投下したことは、日本との戦争でなんら重要な意味をもたなかった。日本軍はすでに敗北していたし、海上封鎖の効果と、通常兵器による爆撃の成功によって、降伏しようとしていた。」

この新兵器『爆弾』と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは『毒物』である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。
アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/William_Leahy.jpg
ウィリアム・リーヒ海軍元帥

非戦闘員を犠牲にすることをよしと
しない軍人としての立場から、日本への
 原爆投下に対しては批判的だった。
 
●以上、当時原子爆弾に批判的だったアメリカ人エリートたちを簡単に紹介してみたが、
結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。
アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。
大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。
しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/joseph_stalin3.jpg
ヨシフ・スターリン

戦後の世界再建交渉において、
アメリカと対等の席につくはずであったが、
原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、
アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまった
 
ところで、ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしいアメリカが犯した戦争犯罪であった。
まさに「炎」の地獄だった。前代未聞の「炎」の海。超高熱と放射線の嵐。一瞬にして数万人の一般市民が焼き殺され、この世から生命を奪われてしまった。一瞬にである。
(原爆は、ユダヤ人の頭脳を結集して誕生した「ホロコースト兵器」であり、通常の爆弾と違って、深刻な「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である)。
 
http://inri.client.jp/hexagon/img/A_bomb_kinoko.jpg http://inri.client.jp/hexagon/img/hiroshima_dome2.jpg
……原爆は大量の人間を一瞬にして焼き殺す「ホロコースト兵器」である……

次回へつづく・・・

 
 
イメージ 1
   FB友達

                   今日の 後ろ姿



イメージ 2


         いつも 笑顔で いましょうね。